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第190回深夜句会(3/14) [俳句]

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暑くなったり寒くなったりで、体力的にキツい。

(選句用紙から)

ささやけるやうに鶯まだ練習

季題「鶯」で春。幼い鶯が小さな声で啼いているのだけど、それがささやくようだ、と。
そこまではいくらもある句かもしれないが、眼目は、下五の「まだ練習」という意図的な字余り。あえてリズムを崩すことで、幼い鳥の鳴き声のたどたどしさを感じさせる。
人によってはその意図をやり過ぎと感じるかもしれないが、私は許容範囲だと思うし、十分楽しめた。

立子忌や和菓子の味の恋しくて

熱帯で立子忌を詠むのはなかなか難しいと思うが、ご本人を存じあげない世代が詠む句として考えるなら、このくらいベタな表現のほうが、かえってそれらしいように思う。ちょっと自信はないが。

髪切つて耳元にある春の風

やられたなーと思う。まず、季題が動かない。ちょっと松田聖子の歌を連想するが、そういう表現を躊躇わないのも経験ゆえか。だいたい「風が耳元にある」って、言われればその通りでありながら、言えそうでなかなか言えない表現。

(句帳から)

風強き夜はとりわけ春の星
青銅の皇帝像に囀れる  
橋桁の川面に近く水ぬるむ 
三月の輪中の村に雨しきり 

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第189回深夜句会(2/15) [俳句]

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(選句用紙から)

植木屋の荷台で昼餉四温かな

季題「三寒四温」で春(早春)。
一日仕事をお願いした植木屋さんが、お昼になって、トラックの荷台でお昼を食べている。自宅から持ってきたお弁当をつかっているのか、コンビニのおにぎりなのか、いずれにしても、トラックの荷台でお昼ごはんがいただける季節になってきたことがわかる。
1ヶ月前なら寒くてそれどころじゃないし、夏になったら今度は熱中症で危険なわけだけど、季節のうつりかわりが、植木屋さんのお昼ごはんでわかるところがいい。

こぼしたる二ひら三ひら梅の昼

梅の咲くころには強い風が吹いていることが多いのだけど、きょうは珍しく風のないよい天気だ。そこへ梅が一ひらまた一ひらと、梅鉢からこぼれるように落ちていく。「梅の昼」がいいですね。

轍立ちそめて淡雪頻りなる

季題「淡雪」で春。淡雪といえども降るときは降るぜ、というわけで早くも道路に轍が立ち始めている。しかしその轍は、真冬の雪の轍とはおのずと異なっていて、最初から最後までぐちゃっとした轍なので、歩きにくいことおびただしい。歩行者の舌打ちが聞こえてきそうだが、それにも構わず淡雪が降りしきっている。淡雪の轍、までが季題といってもよいかもしれない。

(句帳から)

春浅き駅裏喫茶店の客
うららかやお昼休みをまう少し


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第188回深夜句会(1/11) [俳句]

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自分にとっては今年の初句会。不在投句が3人となかなかの盛況。
来年1月が、ちょうど200回目になるのですね。

(選句用紙から)

元朝に弾かれゐたるパスワード

元日の朝なので、さすがに職場ではなく家のパソコンだろう。仕事で使うシステムではなくて、趣味のサイトとかショッピングとかなんでもいいけど、そのサイトに久しぶりに行ってみたら、あんまり久しぶりなのでパスワードが思い出せないとか認証のしくみが変わったとか何かで入れなかった、という句。「元朝」でヒマなので、普段は行かないサイトに行ってみた、というところを「元日」「元旦」といった季題と紐づけて読むのだと思う。

厳かに上座の父の御慶かな

季題「御慶」で新年。これが1950年代とか60年代だったら、こういう風景は当たり前すぎて俳句にならないし、むしろ人によっては反感の対象になったりしたのだろうけど、2024年のいま、この句が詠まれていると、読む方としては、ああ昔はこうだった(らしい)なぁ、という独特の感慨を覚えると思う。ノスタルジアとかいうのでなく、そうだよね(そうだったよね)という共感。

裸木の毛細管のごと天へ

季題「裸木」で冬。当たり前のようで当たり前でない句。枯木の枝を毛細血管に見立てること自体は、おそらく類句があると思うのだけど、それが毛細血管として「天へ」連なっているように見えるということは、この裸木は、枝の細かさが見える程度の微妙な高さがあるということ。そこを楽しむのだと思う。たとえば旧街道沿いの欅並木なんかは、天をつくばかりの高さになっているけれど、枝のある場所も高すぎて、毛細管には感じられない。逆に庭に植えたばかりの木だったら、枝は毛細管のように見えるかもしれないが、「天へ」にはならない。そのあいだのどこかに、枝の細かさも見えて、かつ天に通じるような高さがあることになる。

(句帳から)

初荷これ珈琲豆の麻袋
人日や老年内科予約票
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第187回深夜句会(12/14) [俳句]

寒くてもみなさん元気。俳句好きには、どの季節も俳句の季節。
深夜句会も187回目。2025年のお正月には計算上200回になる。

(選句用紙から)

冬帽の上司となりて帰りけり

季題「冬帽子」で冬。詠み手の意図がよくわかります。仕事中はネクタイジャケットでビシッと決めていた男性上司が、オフィスを立ち去るときにニット帽なんかをかぶっていると、これがまぁ別人のように老け込んだ感じに(もっと素直にいえば、おじいさんに)見えてしまうのですね。これが夏帽子だと、おしゃれなものなので、そういう効果はないのだけど、冬帽子は怖い怖い。上司の冬帽じゃなくて冬帽の上司としたところも巧み。

古暦はづして壁となりにけり

季題「古暦」で冬(歳晩)。一年間壁に掛けてあったか貼ってあった暦を外すと、それは壁面になった、と鑑賞すると何が面白いのかわからんと言われそうだが、いままで暦という「機能」をそこに見ていたのに、それが突然壁という、何の機能もなくメッセージも発しない「事物」に置きかわってしまったことへの驚きと、外した後が微妙に跡になっている(暦のかかっていたところだけ、壁紙がやけていないとか)ことの両方が面白いのだと思う。実際には、新しい暦を持ってきてその場でかけかえることが多いと思うのだけど、何かの理由で、先に今年の暦だけを外したのだろう。

残菊の鉢を並べて路地住まひ

季題「残菊」で冬。丹精込めて育てた菊鉢ではなく、植えっぱなしで無造作に放置されている菊が連想され、従って、並んだその鉢に路地の泥はねがこびりついたままになっている風景が思い浮かぶ。表通りでもなく、お屋敷町でもなく、農山村でもない、「路地住まひ」らしさが、並べられた残菊の鉢に表現されているように思う。

(句帳から)

風花や病院の屋上にゐて
住んでゐた町を通過し冬の夜
昼飯を食べにそこまで冬ぬくし

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第186回深夜句会(11/9) [俳句]

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(選句用紙から)

一群の落葉に後れたる落葉

季題「落葉」で冬。落葉つまりすでに散り敷いている木の葉が、風に吹かれて歩道やグランドのような場所を動いているのだとすると、それがまとまって沢山動いている後ろから、少し追いかけるように遅れていく落葉がある、といった風景だろうか。
もう一つの読み方として、「落葉する」という言い方があるように、現に落ちている葉を詠んでいるのだとすると、まとまった数の葉が落ちた後を追うように、少数の葉が落ちてきた、という句になる。

里をゆくひと駅ごとの冬日和

山中ではなく、大都会でもない。「里」なので、田畑のところどころに集落があるような風景。そうした中を走っている列車が、ときどき駅に止まるのだけど、どの駅にも冬の日が暖かく射している。一駅ごとに周囲の人家や商店の様子は少しずつ違うけど、冬日だけは同じ。


(句帳から)

夜霧には夜霧のにほひありにけり


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第185回深夜句会(10/12) [俳句]

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秋らしい秋の日、とわざわざ言わなければならないほど、このところ夏から冬へ一直線に毎日気温が下降していくのはどうしたことか。

(選句用紙から)

抜かれたる案山子の空を見上げたる

季題「案山子」で秋。稲刈りを前に抜かれた案山子が地面に放り出されて横になっているのだけど、その顔が空を見上げているようだ。もともと人間に似せて作ってあるので、横になってもそうであるはずだが、これが横倒しになると、まったくそうは見えないというか、「放心状態の案山子」とでもいうべき物体になってしまう不思議。

パン焼けてミルクホールの秋灯

ミルクホール、いいですね。京都大学の門の前にある駸々堂(だったっけ?)などが想像されるのだけど、クラシックな、大きな木のテーブルがあるようなミルクホールに、朝から晩まで学生や社会人が入れ替わり立ち代わり座っている。日が傾いてきてあかりが灯るころになっても、遅くまで食事をする利用者のためだろうか、パンを焼き続けているのですね。夏のあいだはうっとうしかったそれらの温かいものが、気温が下がると急にいとおしく感じられる。一年中パンを焼き続けているし、一年中あかりはともっているのだけど、この季節のこの場所は格別だ、ということがすとんと腑に落ちる。

空の底ゆらしてむくの群うねり

季題「椋鳥」で秋。最近しばしば話題になるむくどり大群を描いているのだけど、「空の底」が眼目。「雲の底」という言葉はある(たぶん気象用語だろう)けど、空に底があるかのように、一面に広がって飛んでいる、と解するのだろう。それほど数が多い、ということ。で、そのあとに「群うねり」で波のように群れがうねっているというのだけど、「雲の底」でもうお腹いっぱいなので、そこまで言わなくても十分なのではないかと。

(句帳から)

一人づつパソコン閉ぢてゆく夜業


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第184回深夜句会(9/14) [俳句]

いつまで続くこの暑さ。

(選句用紙から)

おしろいやコーポの脇に屋敷神

郊外の農家の大きな敷地の一角に、相続税対策を兼ねてアパートが建てられている。
そのアパートには「コーポ◯◯」のような名前がついて、そこから都心に人が通勤しているのだけど、農家の敷地だからして、その近くには屋敷神(お稲荷さん)があって、屋敷は取っ払うわけにもいかずにそのままになっている。コーポ◯◯と屋敷神のあいだの狭い隙間には、今年も白粉花が咲いている。
「コーポ」がいいですね。メゾンなんとかとか、カーサなんとかとか、そういう小洒落た(実質はともかく、名前だけは小洒落た)集合住宅ではないわけで。

供養塔あまたある町蝉時雨

この町がニュータウンとか新しい埋立地の町ではなく、歴史があってかつ供養塔がたくさんあるぐらい自然災害や戦災にさらされてきたこと、さらに供養塔がきちんと残されているような、再開発という名の破壊が行われていない、歴史と伝統のある町であることがわかる。
そこにたくさんの蝉が生まれては死にながら鳴いているのだけど、見方によってはその生き死にが(蝉といえば生き死になので)「つきすぎ」のように感じられるかもしれない。ただ、これは眼前の風景なので、そこは響き合う関係を感じればよいと思う。

(句帳から)

ゆくりなく母を入院させ九月
煉瓦館の茶色に似合ふ秋の晴

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第183回深夜句会(8/24) [俳句]

(選句用紙から)

(句帳から)

北向きの緩斜面なる柳蘭
溝萩の色うしなはれ花のあと
二分の一四(し)分の一の南瓜かな

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第182回深夜句会(7/20) [俳句]

(選句用紙から)

夕暮れて茅の輪くぐりの親子来る

季題「茅の輪」で夏(七月)。この句の巧みなところは、社の前の茅の輪に来る人はそれほど多くないことが読み手にわかるところ。参拝者がひきもきらない大きな神社だったら、こういう句にはならないわけで、人もまばらな中、夕暮れになってからやってきた親子連れに「おや?」と感じたというところ。
また、これが深夜だと、ホラー映画になってしまうので、「夕暮れて」もよく効いている。津村記久子さんの「まぬけなこよみ」(平凡社、2017)に「狭い、けれどもちょうどいい大きさの境内」という表現があるが(p.32)、それがあてはまる夏の夕暮れの風景として共感できる。


炭鉱節のテープかすれて盆踊り

季題「盆踊」で夏。一読「テープなの?」と思うわけだが、これはテープなんだと思う。カセットテープがラジカセか何かに入っていて、年に1回、盆踊りのときしか使わない町内会の備品だったりするのでは。なので、あまり商業的に洗練されていない、小規模で素朴な盆踊りなのだろう。

(句帳から)

夏蓬歩道半分まで隠れ
送り火を一・二・三とまたぎけり
泥と埃と土にまみれて花南瓜
夏柳色濃し落とす影も濃し
今脱いだばかりのシャツを夜濯に
青柚子の頑ななまで深緑
溝萩や生まれつき色あせてゐて

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第181回深夜句会(6/22) [俳句]

雨が降ったりやんだり。昼間は暑かったのに、夜になって気温が急降下。こんな日に限って、羽織るものをもっていない。

(選句用紙から)

明易や洗濯物に扇風機

季題「明易」で夏。雨が降っていて、部屋干しなのでしょう。帰宅してから選択したのか、それとも朝から乾かしているけどまだ乾かないのか、いずれにしてもその洗濯物に夜通し扇風機をあてて乾かそうとしているけど、さて外が明るくなってきて、乾いたのか乾いてないのか…これは梅雨のころでないと詠めない一句。

町川の橋の小さきをさみだるる

さみだれと川、といえば蕪村の句が出てくるのだけど、あれは大河。この句はそれとは逆に、街中の小さな川にかかった橋、それもどうかすると暗渠にされてしまいそうな小さな川の句で、その小さな橋の上を歩く人にも、わずかな川面にも、さみだれが降り注いでいる。

(句帳から)

幾重にも青葉重なり合ふ欅
夜涼みとおぼし街頭喫煙所
夏の夜の街灯ずつと連なれる
アーケード駅前通り夜涼かな
庭だつた場所にアパート柿若葉
海風の通り道ある夜涼かな
街薄暑辞書持ち歩くことに倦み

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第180回深夜句会(5/11) [俳句]

午後からライフいや雷雨。落雷で電車が止まったりもしていたらしい。

(選句用紙から)

はりゑんじゆ闌けたる島に住む人なし

季題「はりえんじゅ(針槐)」で夏。白い花を咲かせる高木。ニセアカシア。
明治時代に日本に持ち込まれた植物なので、大昔から島に自生していたのではなく、かつてこの島で暮らしていた人々が何かを願って植えたのだろう。その針槐が何十年もして大木になって白い花をいっぱいつけているのだけど、島にはもう住む人がいなくなっている。庭先に植えられた小さな木ではなく、街路樹とかグランドの縁に植えられた姿が想像され、また、下五の意図的な字余りが加わって、その「不在」ぶりが際立っている。

鯉幟寺町近く工場町

工場町(こうばまち)だけではどんな場所なのか絞りきれず、そこが残念。たとえば「寺町」「紺屋町」「細工町」などはそれだけでどんな場所かをおおむね言い得てるのだけど、「工場町」だと何の工場(こうば)なのか、記憶のファイルから具体的な映像を抜き出すのがちょっと大変。
いずれにせよ、鋳物師(いもじ)町、とか鍛冶(かじ)町、とかそんな町工場的な一帯の軒先か庭先に
鯉のぼりが翻っている。そこに住みながら働いている、長い歴史のある町の鯉幟。

蜂一つ分の名残りや藤揺るる

季題「藤の花」で夏。蜂も夏の季題だが、揺れている藤の花の方を詠んでいるもののように読んだ。下向きに咲いている藤の花に上向きにとまっていた蜂が飛び去って、その反動で揺れているのだろう。「蜂一つ分の名残り」が抒情的。

(句帳から)

三階の窓から欅若葉かな
屋上のプレハブ小屋の春深し
雉鳩の声とほざかる昼寝かな
山荒れて好き放題に藤の花
できるかなできるかなけふ若葉風
母も子も父も五月の雨の中
終点に気動車二両山笑ふ
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第179回深夜句会(4/13) [俳句]

177回は急用で欠席、178回はこれまた急用で投句だけして早退したので、3か月ぶりの深夜句会。

(選句用紙から)

待ちぼうけの駅に菜の花揺れ遊ぶ

携帯電話のない時代、「待ちぼうけ」はときどき起こる事故のようなもので、そのために駅には伝言板が置かれたりしていたのだけど、その駅というのが都会のターミナル駅ではなく、菜の花が咲いているような場所にあるという。そうした場所に住んでいる人の話なのか、あるいはそうした場所を訪ねたあとで駅での待ち合わせがうまくいかなかったのか定かでないが、それにもかかわらず、菜の花は何もなかったかのように揺れ「遊んで」いる。春うらら。

ぽつかりと青空のあり春疾風

ぽっかりと、に議論があるかもしれないが、春の嵐で雲が飛び去っていくさなかに、ふと雲の隙間に青空が覗く、その青空が、冬の空でもなく夏の空でもない、春の色をした青空だ、という句。嵐そのものの様子というより、その嵐の途切れたところに見えている春の空を詠んでいるところが面白いと思う。

チューリップ雨の軽さに傾ぎけり

雨の重さに、でなく「軽さに」傾ぐという表現が狙ったものと思うが、しかし眼前の事実でもあって、そこがこの句の手柄なのだと思う。くどく説明すれば「降っているのは春の細かい軽い雨であって、たたきつけるような降り方ではないのだけど、その軽さにもかかわらず傾いだ」ということなのだろうけど、俳句なので説明は不要。

寛いで家のやうなる花筵

花筵がわが家のよう、という感じが面白い。ちょっとよその花筵に出かけてお相伴に預かって、でもまた戻ってくる。花筵に何人かの、気の置けない仲間か家族がいることが読み取れる。また、「家のやうなる」で相対化されていることから、広い公園のような場所であって、ほかにもたくさんの花筵が広がっている感じか。

(句帳から)

レモン色のデイジー心昏き日も
花蘇芳三代続く診療所
公園のここな小道の濃山吹
山吹の山吹色の開花かな
諸葛菜東中野に至る土手
花蘇芳日ごとその色褪せてゆく
町宿の奥の暗がり春深し


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第176回深夜句会(1/19) [俳句]

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寒い。不在投句がいっぱい。

(選句用紙から)

この川を渡りて仕事はじめかな

勤め人の心をわしづかみにする一句(笑)。「この川を渡りて」という、半ば冗談ではないかと思うほどの大きな振りかぶり方が愉快。この心境はどのようにでも鑑賞でき、仕事はいやだけど職場も近いのでしょうがないから頑張ろうともとれるし、大きな川を渡って新たな気持で晴れ晴れと仕事に臨む、ともとれる。大昔の演歌で、この坂を登れば...という歌があったような気がするのだけど、その存在が、鑑賞に影響を与えているのかもしれない。
楽屋落ちみたいなことを書くのはいけないのだけど、こういう句を詠みそうもない人が詠んでいるのがなんともいえず楽しい。


歳末や母の馴染みの店に買ふ

季題は「歳末」。年末なので、おせち料理の食材を乾物屋に買いに行く、とかお年賀を菓子屋に買いに行く、といった風景が想像されるが、かつては母に連れられて足を運んだその店に、今は自分が同じように訪ねている。小さなドラマというか、過ぎ去った歳月がそこにある。店がかつてと同じように営業していることも重要なポイント。それなりに歴史のある、落ち着いた商店街なのだろう。また、店の種類として、毎日行くような店ではないことも大事。行くたびに母を思い出す、母恋の句。
年があければ、また一つ歳をとる、ということを下敷きにして読むと、いっそうしみじみとした興趣が感じられる。「店に買ふ」がちょっと窮屈なのでは。買ひ、としてもよいか。



冬の池河骨あをき一ト所

河骨の花は夏の季題だが、いまは真冬。あたり一面が黒や茶色や灰色の風景の中、河骨もまた水上の部分は枯れてしまい、水中だけが緑色を残している、そのわずかな緑色が、モノクロームの風景にそこだけ着色したように目立たしい。

(句帳から)

A4の門松畳み古紙袋
身を縮めつつしたたかに冬芽かな

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第175回深夜句会(12/8) [俳句]

今年最後の深夜句会。このぐらいの人数が一番楽しい。

(選句用紙から)

高速道の下に棲みつき花八手

季題「八手の花」で冬。目立たないところに植えられていることの多い八手だが、その八手の花がどこかから歩いてきて高速道路の下に住み着いたような、奇妙な面白さがある。別解として、高速道路の下に人が住み着いているのだと鑑賞することもできるが、それだと、そこで切れて花八手が宙に浮いてしまうので。


冬支度菰ぐるぐる巻きの蘇鉄

菰「ぐるぐる巻き」という平俗な表現が効果をあげている。また、南国の植物であるソテツに菰を巻くことに面白さがあるのだけど、その蘇鉄のある場所が南国ではなく、冬にはそこそこ寒くなる場所だということがわかる。わたり句にしてわざとリズムを崩しているところが上手。


馴染みなき客にも渡す新暦

季題「新暦」で冬。自分はその店の常連で、すでに店主から来年の暦をもらっている。店主と話しているうちに、知らない客がやってきた。店主とその客のやりとりから、この客は初めての客と知れたが、店主はその客にも、来年もよろしくと声をかけて来年の暦を渡している。そのやりとりが見えるぐらいの小さな店(飲み屋でも本屋でもいいが、まあそこそこ滞在時間のあるお店であろう)が、自分にとってのサードプレイスになっていることがわかる。サードプレイスは大事。


(句帳から)

山茶花や薄紅に控へ目に


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第174回深夜句会(11/10) [俳句]

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(選句用紙から)

黄葉して国道チェーン着脱所

国道沿いの景色で、それが黄葉しているという句はいくらでもあると思うけど、その国道にチェーン着脱所があるとしたら、にわかに場所が特定される。山の麓とか、雪国で高速道路を下りたところとか、まあそんなところだろう。いまはまだ車がいない、がらんとして広大な着脱所だが、黄葉から程なくして雪が降りしきり、多くの車が入れ替わりにやってくるようになる。詠み手はこれからやってくる冬を思い、隠れた季題は「冬近し」なのだろう。


幼稚園バス待つ母ら鰯雲

鰯雲は、これから天気が崩れることの直接的な表現なのだろうか、藤田湘子流の、思わせぶりな何か(句意を一度切って、関係ない季題として鰯雲が出てくるというあれ)なのだろうか。
それはどちらでもいいのだけど、「ら」がどうにも…


けふ最後の光集めて芒立つ

今日最後の何々、という言い方はよくあるけど、その対象が芒であるところに、秋の夕方の光線というか日の当たり具合をわかりやすく表せているのでは。


(句帳から)

数日で更地となりぬ冬隣
ぎうぎうに押し合ひながら枇杷の花

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第173回深夜句会(10/13) [俳句]

10月になっても暑く、かつ雨が降っている。
それでも、できるときには対面で句会がやりたい。

(選句用紙から)

肌寒の首にひやんとネックレス

季題「肌寒」で秋。ひやんと、が眼目だが、実は不要なのかも。「肌寒の首にネックレス」だけでも句意は通じるし、さらにいえばネックレスなので首は当然だとすると、肌寒、ネックレスだけでもいいことになる。とはいえ、ネックレスの冷たい触感を「普通に」述べているようで独自の表現になっている。

隣人の鼾も止みて虫の夜に

季題「虫」「虫の夜」で秋。隣人、って家庭の中の隣室(子供部屋?)か、文字通り隣人たとえば木賃アパートのような場所で、隣のいびきが響いているのでは。で、何かのはずみでそのいびきが止まると、あたりの虫の声が聞こえてくる。静かな住宅街であることが一句の前提。

虫の夜の洗濯物の生乾き

これは、本当に生乾きなのか、それとも、昼間乾いたのが夜になって冷たくなったのか、そのあたりがちょっと。少なくともまあ、帰宅が遅くなったことはわかるのだけど。


(句帳から)

午後からの予報通りの秋の雨

 
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第172回深夜句会(9/8) [俳句]

朝晩はすっかり涼しくなってきた。体力が落ちているので、涼しいこと自体がありがたい。

(選句用紙から)

月の出やクレーターまでくきやかに

「いや、地平線から出たばかりの月はもやっとしているはず…」と言われそうだが、詠み手はそれを承知の上で、「そのもやっとしているはずの月が、きょうは珍しく細部までくっきりと見えていることだ」と驚いているわけだ。これは、出たばかりの月が大きく見えることと併せて読むと、詠み手の驚きがいっそう増幅されて納得できる。「まで」は率直な驚きの表出と受け止めたが、読み方によっては説明のようにも感じられてしまうところが少し残念。


駐車場にありし抜け道猫じやらし

季題「猫じゃらし」で秋。
句評で議論になったのは「ありし」。抜け道は今はないのか、それとも今もあるのだろうか。今はないのなら、例えばこどものころはその抜け道を通って隣地へ行っていたのに、そのフェンスの穴とかが塞がれて、今はそこに猫じゃらしが繫っているという風景。今もあるのなら、一見定かではないが、あの猫じゃらしのところに隣地への向け道があったのをさっき見つけたんだよね、という句になる。どちらだろうか。


蝶一羽温帯低気圧を翔ぶ

多くの人が安西冬衛の「てふてふ」を思い浮かべるところ。しかし当節ではバタフライ効果などということばもあって、なんだかこの小さな蝶々が、温帯低気圧を巻き起こしているかのような錯覚を覚えたりもして、そこがこの句の思わぬ面白さにつながっている。で、季題は「蝶」なのか「温帯低気圧」なのか。単に「蝶」だと春の句になってしまうが、おそらく秋の句を意図しているので、「温帯低気圧」を詠うのであれば、「秋蝶や」でもいいかもしれない。いや、それだともろに重なってしまうか…


りんだうを窓辺に朝の美容室

季題「竜胆」で秋。朝の爽やかな空気と、竜胆の清潔な紫がよくひびきあっていて、それがオフィスとか住居でなく、美容室だというところが一層効果をあげている。また、「朝の」なので、これは従業員があくびをしながら出勤するようなチェーン店ではなく、いろいろなものが店主の考えるとおりにしつらえられている、創意工夫にあふれた小さな店なのだろう。こういう美容室にお世話になりたい。

(句帳から)

降り乾きまた降り乾き秋の雨   
秋暑し街は斜面に固定され   

  

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第171回深夜句会(8/4) [俳句]

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第1週に開催するのは初めてかもしれない。不在投句2人、リアル参加者5人。
案の定のコロナ大爆発でやむを得ず方針を変更し、披講と句評のかわりに選句用紙(コメントを書き込んだ選句用紙)を回覧する方法にした。
断続的な雷雨だったけど、句会の前後は不思議と傘をささずに済んだ。

(選句用紙から)

スコールをものともバイク二人乗り

季題は「スコール」で夏。スコールが降るような熱帯地域では、夏とか冬とか言わず一年中降っていそうだけど「夕立」の傍題として扱うということで。
もう長いことそういう地域を訪ねていないので、最近はどうなっているかわからないのだけど、そうした地域ではバイクの二人乗りをよく見かける。スコールがやってきても二人乗りを解消するわけにいかないので、二人してくっついたままバイクで移動していく。「ものとも」がやや舌足らず。「スコールもものかは」でいいのではないかと。


揚げ花火聞きつつ母と長電話

季題「花火」で夏。打上げ花火の音を「聞きながら」母親と長電話をしているという句意は明瞭なのだけど、「聞きつつ」がいいですね。見ていないわけです。会話の途中でときどき合いの手のように(娘には)聞こえる花火の音と、そうしたことと関係なく、ああでもないこうでもないと続く母と娘の長電話の親密さが伺える。例えば「雨音を聞きつつ」だと、そういう感じにはならない(それ以前に無季だけど)。

(句帳から)

雷鳴に残響長く続きをり
放たれし火箭のやうに百日紅
夏掛の向きわからなくなる深夜


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第170回深夜句会(7/14) [俳句]

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回を重ねて170回。計算上はあと2年半で200回になるが、ここへきてコロナがまたまた増加基調に転じてしまい、来月はどうなることやら。

(選句用紙から)

草刈機の一斉に止む正午かな

「一斉に」というからには、複数台なのですね。とすると、広い場所なのだろう。で、その複数台の草刈り機の音が、正午になって、それぞれキリのいいところで止まるのではなく、タイマーで電源が落ちるかのように、ピタッと揃って止まる。そこに詠み手の興趣がある。視覚ではなく、あくまでも聴覚。その実態が、統制がとれた部隊なのか、それとも、一秒でも早く離脱したい人たちなのか、そのあたりはわからないが、午後になったらまた、「一斉に」音を立て始めるのだろう。


黒南風や泣く子を更に叱りつけ

季題「黒南風」で夏。雨と雲を伴ってやってくる暗い南風と中七下五があまりに合致していて、しばらく身動きができなくなるような一句。自分で自分のブレーキが壊れてしまう感覚と、梅雨末期の壊れたようなひどい雨の降りかたの符合もまたこの句の眼目。自分のなかの、ふだん抑えつけている不穏なものを召喚されたようで、もやもやした読後感が長く続く一句。


水面をチクチク進む目高かな

季題「目高」で夏。「チクチク」の発見がこの句のすべてといったら大げさになるが、新しく作られたことばでなく、従来「背中がチクチクする」とか「チクチクと縫う」のように使われていたことばを目高の動く様子に転用して間然とするところがないのがいい。そういう句に接すると、「そう言われればそんな気がするのだけど、どうして今まで思いつかなかったのだろう。」と思うのだけど、今回もそのとおり。


(句帳から)

街灯にかぶさりなほも繁りたる
七月の日没あとの空の色


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第169回深夜句会(6/9) [俳句]

雨。
次回が170回目になるのですね。どこまで続けられるのだろう。

(選句用紙から)

海を来し風にポプラの絮とべる

季題「ポプラの絮」で春(草の絮は秋、柳やポプラの絮は春)。ポプラが植わっている場所といったら、小さな家の玄関先ではなく、まずは大通りとかグランドとか畑のへりになるのだろうけど、そういう場所に、風に乗ってポプラの綿毛が飛んでいる。その風が、そう遠くない海から吹いてきたー北の海を渡ってきたー冷たい風だ、という一句。そこに暮らして俳句を詠んでいる人にはつきすぎに感じられるかもしれないが、暖地に住んでいる者にとっては、北国の北国らしさというか、北国ではポプラの綿毛といえども、ひんやりした空気のなかを飛んでいるのだね、と感じられて好ましい。


梅雨曇東京駅の空狭く

都会の空が狭い、という表現はよくある(手垢がついていると言ってもよい)のだけど、ここではもっと踏み込んで「東京駅」としたうえで、何しろ周囲には高いビルばかりがある場所なので、それで空が狭いというよりも、梅雨曇りのその雲が低くたちこめて、駅の上やまわりのビルにかぶさって空が「狭く」なっている様子を表しているように感じられた。上五を「凍雲や」「鰯雲」に置き換えてみても、この感じは出ない。


袖を二度三度捲りし薄暑かな

季題「薄暑」で夏。腕まくりの句って無数にあると思うのだけど、この「二度三度」をどう鑑賞するか。一定の時間の経過のなかで、腕まくり→もとに戻す→再び腕まくり→もとに戻す→三たび腕まくり
という繰り返しを表しているのだろうか。それとも、長袖のドレスシャツのカフの部分を「二度三度」折り返すように腕まくりをしたということだろうか。面白いのは後者だろう。あれは二度折り返すと、ちょうど肘に届くのだけど、さらにもう一度折り返すと本格的な(?)腕まくりになるのです。

(句帳から)

山梔子の咲いてるはずの雨の道
遠雷をぼんやり映し雲の色

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