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中島京子『樽とタタン』(新潮文庫、2020) [本と雑誌]

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出張に持参した本を往路で読み終えてしまい、現地の本屋さんの新刊台から選んだ一冊。雨が降る寒い日だったのに、復路の電車が暖かく感じたのは、この本のおかげかもしれない。

いわゆる「いい話」とはちょっと違うのだけど、
 ・こどものころのトモコの視点
 ・大きくなって物書きになったトモコの視点
 ・作者すなわち中島京子さんの視点
が巧みに混同というかソフトフォーカスで描かれていて、さらに一つ一つのエピソードも、小説の中でさえも現実であるようなないような、ふわっとしたファンタジー風味になっている(軽いホラー風味といってもよいかもしれない)。この味わいは、単なる懐古とはまったく異なるので、誰でも共感できるとまではいえないだろうが、「過去って、べったりと懐かしいものではなく、そういう不思議な面があるよね」という了解ができる人なら、文句なく楽しめると思う。最後にトモコがその場所を訪ねるくだりは、そっけなく書いてあるだけにいっそう思いをかきたてる。

著者の他の作品を読んでみたくなる一冊。

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第149回深夜句会(10/8) [俳句]

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(選句用紙から)

半分の半分に割る青蜜柑
 季題「青蜜柑」で秋。「半分の半分」のリズム感が心地よい。また、まず半分にして、それをさらに半分にしていく様子、手の動きが見える。

牧場に残る学び舎蔦紅葉
 季題「蔦紅葉」で秋。俳句以前に、こういう場所があることに惹かれた。牧場の中に学校があるというからには、ずいぶん大きな牧場で、そこでたくさんの若者が働きながら学び、共同生活を営んでいる(いた)と想像される。あるいは、そこで働いている人たちの子弟が通っていた小学校なのかもしれない。インドの大きな茶園のようだ。どうした事情か今は使われていないその校舎に蔦がからみ、紅葉している様子は、その校舎を今も大事に守っている人たちの気持ちや、もうすぐやってくる冬の厳しさを想像させたりもする。

眉かくす帽子の上の秋の雲
 いろいろな帽子のなかには、頭頂部にちょこんと載っているだけのような帽子もあるのだけど、これは目深にかぶると眉が隠れるような帽子、たとえばビーニーのようなニットキャップなのだろう。といっても、冬帽子というほど厚手のものではない。
 で、その眉と帽子は相接しているというか隣り合っているというか、まあ至近距離にあるので、「眉かくす帽子の上の」と来ると、その帽子のすぐ上には何があるのだろう、虫がとまっているのか、それとも傘でもさしているのだろうか、と思わせておいて「秋の雲」と落とす。このストンとくる感じ、軽妙洒脱な感じが俳諧味なのだろうと思う。

倒木に虻の翅音や秋日影
 森のなかの倒木。みっしりと植林された森だと、全体が「秋日影」になってしまうが、ここは雑木林のような場所で、日があたっている場所と日陰とが入り混じっているのだろう。で、作者は倒木の近くにいて、あるいは倒木に腰掛けて、虻のわずかな翅音を聴いている。虻の姿は、日向日陰を出入りするたびに見えたり見えなくなったりするのだけど、翅音はずっと続いている。もしこれが日影(夏の日影)だったら、この句はあまり面白くない。秋の日影であることが、やがてやってくる冬に向けて、森のなかの命がそれぞれに備えようとしていることを連想させ、それ一句の通奏低音のような効果をあげている。

(句帳から)

ラジオつけたまま木犀の家
薄紅葉かつてケーブルカーありき

 
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小池昌代『弦と響』(光文社文庫、2012) [本と雑誌]


「本の雑誌」10月号に、弦楽四重奏団のラストコンサートを描いた小説として紹介されていたので、さっそく読んでみたのだけど…

弦楽四重奏曲に限らず、デュオでもトリオでも、それがたとえ初心者のアンサンブルでも、楽器と楽器とが音を重ねることの素朴な喜びみたいなものが必ずあるのだけど、どうしたことか、この小説にはそれがあまり感じられないのが残念。たまたま題材が弦楽四重奏だっただけ、といったら言い過ぎだろうか。ひとつひとつのエピソードは楽しくて、よく取材されていることが窺われるのだけど。

 
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