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目黒考二さんを悼む(『本の雑誌』2023年5月号) [本と雑誌]

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1月に亡くなった目黒考二さんの追悼号。自分にとっては目黒さんあっての「本の雑誌」だったので、これからどうなるのか心配だが、ともかく読書という営みを通じて数多くの人とつながっていた方だけあって、弔詞を寄稿されている数々の名前も、さながら目黒山脈とでもいうべき壮観になっている。

しかしそれらのどれよりも、本の雑誌者でいっしょに働いていた(かつては会社の一室に住んでいたわけだから、文字通りいっしょに働いていたわけだけど)人びとのことばが最も印象に残る。いずれも個人的な場所からの、個人的なことばであって、定型文でなくざらざらしているので、それが訴える力になっている(定型文がいけないというのではない。定型文は身を守る盾として有効。ただそれ以上のものが定型文から得られるわけではないというだけ)。たとえば杉江由次さんが書かれた「本の雑誌社『その日』までの記録」の一節(31頁)。
(以下引用)
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本屋さんに行くたびに、もうここにある本を目黒さんは読めないのか、そもそも目黒さんはもう本屋さんに行けないのかと苦しくなる。生まれて初めて本屋さんに行くのがつらい。
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(以上引用終わり)
これ以上切実な哀悼の言葉があるだろうか。
また、つけ足すとすれば、1つ前の4月号に鏡明さんが書かれていた思い出で、その淡々とした筆致もさることながら、これも鏡さんのふだんの言葉で綴られている分、そうだなあと思わせるものがあった。


(4.25追記)
宇野重規さんがtwitterで、この5月号について書かれている。全文引用してしまうと引用の要件を満たさないことになってしまうが、書かれていることがすばらしいので、おとがめは覚悟であえて引用すると、
(以下引用開始)
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ようやく『本の雑誌』を入手。この雑誌を創刊した目黒考二さんの追悼号。本を読むことだけが生きがいの変な(変でもないけど)青年が、そういう若者を育てる立場になる。大江健三郎、坂本龍一の死もショックだけど、この人が亡くなったのも、喪失感があるなあ。
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(以上引用終わり)
宇野さんほど多くの本を書かれ、多くの人を教えてこられた方でも、こういうふうに思われるのですね。そうであれば、私が同じように思うのはちっともおかしくないことになる。

(5.16追記)
それにしても、表紙の「酒と家庭は読書の敵だ!」という煽り文句が笑えるというか笑えないというか、ご本人の口癖だったそうだけど。
自分に読書の楽しみを教えてくれたひとびとの多くは、もう亡くなってしまったか、少なくとも本について話すことはできなくなってしまった。で、自分はそのバトンを次の世代に渡すことができているのかと少し自問する。

(7.10追記)
「旅行人編集長のーと」に蔵前仁一さんがこの号について書かれている。蔵前さんほどの書き手でも、目黒考二(北上次郎)に褒められたことで「僕も目黒さんや椎名さんに褒めてもらったおかげで、物書きとしてやっていけるかもしれないと自信がついた。」と思っているのですね。ちょっと意外。

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第180回深夜句会(5/11) [俳句]

午後からライフいや雷雨。落雷で電車が止まったりもしていたらしい。

(選句用紙から)

はりゑんじゆ闌けたる島に住む人なし

季題「はりえんじゅ(針槐)」で夏。白い花を咲かせる高木。ニセアカシア。
明治時代に日本に持ち込まれた植物なので、大昔から島に自生していたのではなく、かつてこの島で暮らしていた人々が何かを願って植えたのだろう。その針槐が何十年もして大木になって白い花をいっぱいつけているのだけど、島にはもう住む人がいなくなっている。庭先に植えられた小さな木ではなく、街路樹とかグランドの縁に植えられた姿が想像され、また、下五の意図的な字余りが加わって、その「不在」ぶりが際立っている。

鯉幟寺町近く工場町

工場町(こうばまち)だけではどんな場所なのか絞りきれず、そこが残念。たとえば「寺町」「紺屋町」「細工町」などはそれだけでどんな場所かをおおむね言い得てるのだけど、「工場町」だと何の工場(こうば)なのか、記憶のファイルから具体的な映像を抜き出すのがちょっと大変。
いずれにせよ、鋳物師(いもじ)町、とか鍛冶(かじ)町、とかそんな町工場的な一帯の軒先か庭先に
鯉のぼりが翻っている。そこに住みながら働いている、長い歴史のある町の鯉幟。

蜂一つ分の名残りや藤揺るる

季題「藤の花」で夏。蜂も夏の季題だが、揺れている藤の花の方を詠んでいるもののように読んだ。下向きに咲いている藤の花に上向きにとまっていた蜂が飛び去って、その反動で揺れているのだろう。「蜂一つ分の名残り」が抒情的。

(句帳から)

三階の窓から欅若葉かな
屋上のプレハブ小屋の春深し
雉鳩の声とほざかる昼寝かな
山荒れて好き放題に藤の花
できるかなできるかなけふ若葉風
母も子も父も五月の雨の中
終点に気動車二両山笑ふ
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戴冠式の音楽 [音楽]

BBC(CS)で視聴。
イギリスの戴冠式を見るのは初めてだし、次の戴冠式が見られるかは微妙こらこらこらだが、式典終盤の国歌の前のファンファーレが、記録映画や映画で知っている1953年の戴冠式のそれと全く同じ。映画「チャーリング・クロス街84番地」(1987アメリカ、デヴィッド・ジョーンズ監督)では、テレビで視聴していたフランク一家がここで(テレビの前で)起立するのでしたね。

しかしあの、仏教界やイスラム教界やシーク教界から代表を呼んでくるところとか、ゴスペルを使うところとかに、チャールズ3世らしさが表れているのでしょうね。BBCが配信している式次第を読むと、それこそビザンチンの御詠歌やヘンデルから、1953年の戴冠式にあてて作られた音楽まで、いろいろなものが取り入れられていて、いい感じ。

 
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