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三浦しをん『ののはな通信』(角川文庫、2021) [本と雑誌]

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今年のしおや100キロウォークに出走するため矢板駅前の宿に泊まったら、隣に小さな本屋があるのを発見した。当節どんどん本屋が減るなかで、地方の駅前に本屋があることが嬉しく、閉店間際だったので、困ったときの定番である三浦しをんを購入。でも本番前日にうっかり読まなくてよかった。読むのがやめられなくなって徹夜してしまい、寝不足で出走できなくなったに違いない。

しょうもない前置きはともかく、すごい本だった。ほんわかしたタイトルに幻惑されてはいけない。
ネタバレにならないように感想を述べるのは難しいが、ここで問われていることのひとつは、「10代の一時期に経験したことを至上至高のものとして、その後の人生を、いわば余生として過ごすことは可能なのか」ということではないだろうか。
人によって答えが違うだろうが、この本に衝撃を受けた理由は、自分の答えが「YesでもありNoでもある」からだ。単にYesな人や、単にNoな人は、そこまでの衝撃を受けないだろう。少しややこしくなるが、以下に説明する。

中年になってから小中学校のクラス会なんかへ行って、かつての同級生が、人相風体は変わり果てているのに、行動原理やものの見方考え方は驚くほど昔と同じであることを発見した人は多いはずだ。それを「三つ子の魂百まで」とか言うけど、ここから導かれる結論は、「人の性格や、ものの見方考え方の中心部分は、ずっと変わらない」になる。これを上記の問いに当てはめると、Yesつまり「『自分』のコアはずっと続いているのだから、そのように考え続けて生きていくことは可能である」ということになる。

他方、こどもと接していると、1年前どころか数か月前までの主義や主張が全然変わってしまっていることは珍しくない(もちろん、変わらない部分もあるのだけど)。また、自分が過去に書いたものを読むと、現在の考えとは正反対の主張をしていることも多い。そうすると、より根本的な疑問として、30年前の自分と10年前の自分、今の自分、そして15年後の自分は、仮に記憶が継続しているとしても、本当に同じ人物なのか?という疑問がある。さらに仮定を進めて、もし記憶の(もっと)大部分が毎年失われるとしたら、何をもって同じ人物だというのだろう?これを上記の問いに当てはめると、Noつまり「精神的な意味での『自分』は、それほど連続的でも不変でもないので、それは不可能である」ということになる。

いやもちろん、社会生活を営む上で全面的に後者の立場をとったら、1年前の悪事の責任をとらなくてもいいとか、過去に締結した契約や約束を守らなくてもいいとか、将来のために努力するのは無意味とかになってしまって、大混乱になっちゃうので困るでしょということはわかるのだけど、他方、前者の立場をとるとどうしても避けられない問題は、終始一貫している「自分」のすべてが、死によって終了してしまうという点だ。それは耐えがたい恐怖である。

なので、その都合の悪さというか恐怖を和らげるためといってもいいが、自分は年齢とともに後者に傾いてきたわけで、この考えを極端に推し進めて「きのうの自分と今日の自分と明日の自分は、記憶はつながっていても別人」と考えれば、死は近未来のどこかにある自分の「結果的に最終日となる、その日の自分」を終わらせる出来事にすぎず、ずいぶん気分が楽になる。

しかし、それで割り切れるはずもないことは上に書いたとおりで、それ以上考えを深めないままYesとNoをあいまいに両手に抱えているところを目がけてこの剛速球が飛んできて死球で昏倒した次第。
ということで、まだ6月だけど『ののはな通信』が今年のベストワンに決定。

※ そっち方面に詳しい方は気づかれたと思うが、後者は私のオリジナルでもなんでもなく、イギリスの哲学者デレク・パーフィットの影響というか受け売りである。自分の思想の中心部分がオリジナルでないとは何事か、と怒られそうだが、自分で考え抜く力がないので仕方がない。

(6.20追記)
本文最後の4行、それもこのストーリーのあとにこの4行を持ってくるのは、三浦しをんにしかできない技なのでは。難しい言葉を一切つかわずこの4行を書ける力がすごい。あっこれは電車で読んではいけないやつだと気づいた時にはもう手遅れ。
この小説家と同時代に生きていて、新作を楽しみにできることが幸せ。

 

 


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第169回深夜句会(6/9) [俳句]

雨。
次回が170回目になるのですね。どこまで続けられるのだろう。

(選句用紙から)

海を来し風にポプラの絮とべる

季題「ポプラの絮」で春(草の絮は秋、柳やポプラの絮は春)。ポプラが植わっている場所といったら、小さな家の玄関先ではなく、まずは大通りとかグランドとか畑のへりになるのだろうけど、そういう場所に、風に乗ってポプラの綿毛が飛んでいる。その風が、そう遠くない海から吹いてきたー北の海を渡ってきたー冷たい風だ、という一句。そこに暮らして俳句を詠んでいる人にはつきすぎに感じられるかもしれないが、暖地に住んでいる者にとっては、北国の北国らしさというか、北国ではポプラの綿毛といえども、ひんやりした空気のなかを飛んでいるのだね、と感じられて好ましい。


梅雨曇東京駅の空狭く

都会の空が狭い、という表現はよくある(手垢がついていると言ってもよい)のだけど、ここではもっと踏み込んで「東京駅」としたうえで、何しろ周囲には高いビルばかりがある場所なので、それで空が狭いというよりも、梅雨曇りのその雲が低くたちこめて、駅の上やまわりのビルにかぶさって空が「狭く」なっている様子を表しているように感じられた。上五を「凍雲や」「鰯雲」に置き換えてみても、この感じは出ない。


袖を二度三度捲りし薄暑かな

季題「薄暑」で夏。腕まくりの句って無数にあると思うのだけど、この「二度三度」をどう鑑賞するか。一定の時間の経過のなかで、腕まくり→もとに戻す→再び腕まくり→もとに戻す→三たび腕まくり
という繰り返しを表しているのだろうか。それとも、長袖のドレスシャツのカフの部分を「二度三度」折り返すように腕まくりをしたということだろうか。面白いのは後者だろう。あれは二度折り返すと、ちょうど肘に届くのだけど、さらにもう一度折り返すと本格的な(?)腕まくりになるのです。

(句帳から)

山梔子の咲いてるはずの雨の道
遠雷をぼんやり映し雲の色

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第168回深夜句会(5/19) [俳句]

(選句用紙から)

代田かな売物件の札立ちて

季題「代田」で夏。代掻きが終わり、水をたたえて田植えを待っている田んぼに、どうしたことか「売物件」という野立て看板が立っているというのだ。代田だからして、その水面に「売物件」の文字が映ったりしているのであろうが、それより何より、これから田植えをしようという場所が売りに出されているという奇妙な事実が、かえって俳句的である(これが「刈田」とか休耕地に看板が立っているとしたら、印象がだいぶ違ってくる)。農地は自由に売買できないんじゃないのというツッコミはまた別(いや、市街化区域内の水田なのかもしれないし)。

春時雨はれて夕日の甍かな

こういう句を鑑賞するとき俳人は、「春時雨」が本来の(冬の)時雨とどう違うのかを気にしながら読むのだけど、時雨があがって差し込んできた夕日が、瓦屋根にやわらかく当たっている様子は、いかにも春の風情というか、人によってはつきすぎと感じられるかもしれない。もう少しいうと、時雨という気象現象は、国内の比較的限られた地域でよく起こるのだけど、その限られた地域はまた、寺社がたくさんある地域でもあって、そうしたこと(民家の甍だって構わないのだけど、大きな寺の本堂のような、大きな面積をもった瓦屋根に夕日があたっている様子)も連想させる。

検疫の列に並びて明け易し

2022年5月の句会なので、これは帰国時の句として読むのだろうけど、仮にそれを抜きにしたとしても、これは俳句たりうると思った。すなわち、夜行便で長時間まどろんだ末、夜明けに到着したどこかの国で、入国のために最初に通過する関門(検疫)に長い列ができているという状況だ。こんにちなお検疫という関所が意味を持っている国は、そういう必要がある国なわけで、たとえばイエローカードがないと入れない国で、1人ずつ提示してチェックを受けるために長い列に並んでいる、といった状況が想定される。なかなかに気が重い風景であるが、他方で、その国(夏を迎えたその国)で何が始まるのだろう、といった心の動きも感じられる。


(句帳から)

鎮守の森代田に浮かぶやうにあり
金雀枝をポットに植ゑて美容室

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