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アンドレアス・レダー『ドイツ統一』(板橋拓己訳、岩波新書、2020) [本と雑誌]

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書かれていることは事実だろうと思うし、流れを大づかみにするためにはとてもよい本だと思う。また、旧西独側からこのように見えることも理解できる。

不満というわけではないが、引っかかるのは、「旧東独の経済的な行き詰まりはきわめて深刻で、経済的崩壊は偶発的なものではない」としておきながら、肝心な部分を、コールやゴルバチョフといった「英雄たち」の歴史として書いている点。歴史にifはないが、出発点の状況をふまえれば、コールやゴルバチョフといった役者が現れなくても、ほぼ同じように東独は崩壊したことになるのではないだろうか。それとも、英雄たちのおかげで、混乱が最小限で済んだということなのだろうか。

それはともかく、私が読みたいのは、英雄たちの歴史でもなく、旧東独の人びとの「お気持ち」でもなく、旧東独の人たちの「ライフ」がどう変わったかという点だ。平均寿命、出生率や死亡率、世帯規模、初婚年齢、失業率、毎日の睡眠時間…といった客観的に計測可能な指標が、1990年以前と以降でどう変わったのか、変わらなかったのか、それを知りたい。これは、この本が足りないというより、「こういう歴史が読んでみたい」という当方の勝手な希望によるものだが。

笑えるのは、「「異なる考えをもつ者は敵である」というのが国家保安省のモットーであり、」というくだり(17頁)。こういう発想って、旧東独に限らない話というか、敵か味方かでしか考えられない(ので、まともな議論ができない)人って至る所にいますね。

あと、文意が不明な箇所が1点。「もっぱら債務をストップするだけでも、一九九〇年には生活水準の二五〜三〇パーセントの低下が必須であり」(15頁)って、債権や債務って「ストップ」できるものではないでしょう。債務の弁済ならストップできるけど。ここはどういう意味なのだろう。教えてジェネラル!

  

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第153回深夜句会(2/11) [俳句]

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対面の句会じゃないので、祝日でもかまわず開催できるのは不幸中の幸い。

(選句用紙から)

しやぼん玉ういてしづんで無回転
 季題「石鹸玉」で春。吹き出されたしゃぼん玉が浮いたり沈んだりする様子は多くの句に詠まれているけれど、それが無回転(のように見える)、というところに詠み手の発見がある。また、風に吹かれて次々に飛び去っていくのではなく、ほとんど風がなくてずっとその辺を漂っているのだろう。

日当たりて河岸段丘木の芽吹く
 季題「木の芽」「木の芽吹く」で春。河岸段丘だから、あるいは扇状地だから、というと理屈になってしまうが、ここではそうでなく、たまたま郊外を歩いていた詠み手の目にとまったということだろう。その木の芽のずっと遠くまで、川をはさんだ谷間の春の風景が広がっている。

寒日和居間の時計の針の音
 寒の内のある日、幸いにもよい天気に恵まれた昼の時間に居間でじっとしていると、掛時計の針の音までが聞こえるほどの静かさが感じられる。上五が「麗かや」とか「秋日和」でもよいのではないか、つまり季題が動くのではないか、という意見もあろうが、詠み手の意図は、天気はよいがひどく寒い、という点にあるのだろう。そうすると時計の音も、のどかな午後というよりも、ある種の緊張感を帯びて、冷たい空気の中で刻まれていると受け止めるべきなのだろう。

アパートの裏にマンション枇杷の花
 季題「枇杷の花」で冬。アパートの裏「の」ではなく、アパートの裏「に」であることに惹かれる。この枇杷の木はずっと以前からアパートの敷地にあるのだけど、最近になって、裏の敷地に大きな(少なくとも、アパートよりは大きな)マンションが建ったのだろう。今出来のそのマンションと、すこし時間が経過したアパート+ややクラシックな枇杷の木、という対比が、枇杷の花のいかにも地味な感じを際立たせている。

鉄道の跡の緑道黄水仙
 季題「黄水仙」で春。廃線跡が遊歩道になっているのはよく見かけるが、適度にカーブがあって、また道幅もほどよく狭く、楽しい道になることが多い。黄水仙は花壇に植えられているのか、それとも両側の民家の庭に咲いているのだろうか。

(句帳から)

葉牡丹の窮屈さうな分離帯



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