第172回深夜句会(9/8) [俳句]
朝晩はすっかり涼しくなってきた。体力が落ちているので、涼しいこと自体がありがたい。
(選句用紙から)
月の出やクレーターまでくきやかに
「いや、地平線から出たばかりの月はもやっとしているはず…」と言われそうだが、詠み手はそれを承知の上で、「そのもやっとしているはずの月が、きょうは珍しく細部までくっきりと見えていることだ」と驚いているわけだ。これは、出たばかりの月が大きく見えることと併せて読むと、詠み手の驚きがいっそう増幅されて納得できる。「まで」は率直な驚きの表出と受け止めたが、読み方によっては説明のようにも感じられてしまうところが少し残念。
駐車場にありし抜け道猫じやらし
季題「猫じゃらし」で秋。
句評で議論になったのは「ありし」。抜け道は今はないのか、それとも今もあるのだろうか。今はないのなら、例えばこどものころはその抜け道を通って隣地へ行っていたのに、そのフェンスの穴とかが塞がれて、今はそこに猫じゃらしが繫っているという風景。今もあるのなら、一見定かではないが、あの猫じゃらしのところに隣地への向け道があったのをさっき見つけたんだよね、という句になる。どちらだろうか。
蝶一羽温帯低気圧を翔ぶ
多くの人が安西冬衛の「てふてふ」を思い浮かべるところ。しかし当節ではバタフライ効果などということばもあって、なんだかこの小さな蝶々が、温帯低気圧を巻き起こしているかのような錯覚を覚えたりもして、そこがこの句の思わぬ面白さにつながっている。で、季題は「蝶」なのか「温帯低気圧」なのか。単に「蝶」だと春の句になってしまうが、おそらく秋の句を意図しているので、「温帯低気圧」を詠うのであれば、「秋蝶や」でもいいかもしれない。いや、それだともろに重なってしまうか…
りんだうを窓辺に朝の美容室
季題「竜胆」で秋。朝の爽やかな空気と、竜胆の清潔な紫がよくひびきあっていて、それがオフィスとか住居でなく、美容室だというところが一層効果をあげている。また、「朝の」なので、これは従業員があくびをしながら出勤するようなチェーン店ではなく、いろいろなものが店主の考えるとおりにしつらえられている、創意工夫にあふれた小さな店なのだろう。こういう美容室にお世話になりたい。
(句帳から)
降り乾きまた降り乾き秋の雨
秋暑し街は斜面に固定され
(選句用紙から)
月の出やクレーターまでくきやかに
「いや、地平線から出たばかりの月はもやっとしているはず…」と言われそうだが、詠み手はそれを承知の上で、「そのもやっとしているはずの月が、きょうは珍しく細部までくっきりと見えていることだ」と驚いているわけだ。これは、出たばかりの月が大きく見えることと併せて読むと、詠み手の驚きがいっそう増幅されて納得できる。「まで」は率直な驚きの表出と受け止めたが、読み方によっては説明のようにも感じられてしまうところが少し残念。
駐車場にありし抜け道猫じやらし
季題「猫じゃらし」で秋。
句評で議論になったのは「ありし」。抜け道は今はないのか、それとも今もあるのだろうか。今はないのなら、例えばこどものころはその抜け道を通って隣地へ行っていたのに、そのフェンスの穴とかが塞がれて、今はそこに猫じゃらしが繫っているという風景。今もあるのなら、一見定かではないが、あの猫じゃらしのところに隣地への向け道があったのをさっき見つけたんだよね、という句になる。どちらだろうか。
蝶一羽温帯低気圧を翔ぶ
多くの人が安西冬衛の「てふてふ」を思い浮かべるところ。しかし当節ではバタフライ効果などということばもあって、なんだかこの小さな蝶々が、温帯低気圧を巻き起こしているかのような錯覚を覚えたりもして、そこがこの句の思わぬ面白さにつながっている。で、季題は「蝶」なのか「温帯低気圧」なのか。単に「蝶」だと春の句になってしまうが、おそらく秋の句を意図しているので、「温帯低気圧」を詠うのであれば、「秋蝶や」でもいいかもしれない。いや、それだともろに重なってしまうか…
りんだうを窓辺に朝の美容室
季題「竜胆」で秋。朝の爽やかな空気と、竜胆の清潔な紫がよくひびきあっていて、それがオフィスとか住居でなく、美容室だというところが一層効果をあげている。また、「朝の」なので、これは従業員があくびをしながら出勤するようなチェーン店ではなく、いろいろなものが店主の考えるとおりにしつらえられている、創意工夫にあふれた小さな店なのだろう。こういう美容室にお世話になりたい。
(句帳から)
降り乾きまた降り乾き秋の雨
秋暑し街は斜面に固定され
川端康雄『増補 オーウェルのマザー・グース』(岩波現代文庫、2021) [本と雑誌]
何度も読んだつもりでいたオーウェルの小説、たとえば『1984』を、専門家はこういう切り口で読むのですね。たしかにこういう場面はあったけど、それ以上何も考えなかった自分が、ストーリーを追っているだけだったことを痛感。
あとは、オーウェルが生涯にわたって追求したdecencyと、イギリスのさまざまな文物への執着がどういう関係にあるのか、すっきりと説明してくれたことに感謝。これで落ち着いてオーウェルの著作が読めるような気がする。なお、この章で紹介されている「一九七〇年代にジュラ島を訪れたオーウェル研究家が、現地で知り合った電気工事人から聞いたオーウェルの思い出」が非常に印象的で、この部分(孫引きになってしまうので紹介しないが、441頁)だけでもこの本を読む価値があると思う。この時代にはまだ、オーウェルとやりとりをしたことのある人物が存命だったのですね。そうであれば、調査や探求もやりがいがあったことだろう。