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第190回深夜句会(3/14) [俳句]

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暑くなったり寒くなったりで、体力的にキツい。

(選句用紙から)

ささやけるやうに鶯まだ練習

季題「鶯」で春。幼い鶯が小さな声で啼いているのだけど、それがささやくようだ、と。
そこまではいくらもある句かもしれないが、眼目は、下五の「まだ練習」という意図的な字余り。あえてリズムを崩すことで、幼い鳥の鳴き声のたどたどしさを感じさせる。
人によってはその意図をやり過ぎと感じるかもしれないが、私は許容範囲だと思うし、十分楽しめた。

立子忌や和菓子の味の恋しくて

熱帯で立子忌を詠むのはなかなか難しいと思うが、ご本人を存じあげない世代が詠む句として考えるなら、このくらいベタな表現のほうが、かえってそれらしいように思う。ちょっと自信はないが。

髪切つて耳元にある春の風

やられたなーと思う。まず、季題が動かない。ちょっと松田聖子の歌を連想するが、そういう表現を躊躇わないのも経験ゆえか。だいたい「風が耳元にある」って、言われればその通りでありながら、言えそうでなかなか言えない表現。

(句帳から)

風強き夜はとりわけ春の星
青銅の皇帝像に囀れる  
橋桁の川面に近く水ぬるむ 
三月の輪中の村に雨しきり 

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中井久夫集4 「統合失調症の陥穽 1991-1994」(みすず書房、2017) [本と雑誌]

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目立たない論考だが、「危機と事故の管理」を読むと、管理者としての中井久夫さんの素顔が現れていて、精神科医による文章が世の中にたくさんある中で中井久夫さんがよく読まれる理由の一つに、管理者としてのセンスの良さ(をうんぬんする立場にないけれども)があるのだと思う。人命を相手にする仕事だけに、現場で起こるアクシデントにもシリアスなものが多いわけだが、それらに対する臨み方について語られていることは、医療以外の世界で管理者を務めている人々にとって、たいへん納得のいくものであり、また示唆に富むものではないかと思われる。

もう一つ、私が中井久夫さんの論考に共感を覚えるのは、「症例検討会では、住んでいる地域の地理的条件を私はよく問題にする。」(『治療文化論再考』p.285)姿勢だ。「入れ物の形に中身を合わせるように体験を加工しがち」(p.284)な者が多い中、自分はそうではないと明言しているので、この点については自信をお持ちだったのだと思う。この基準ないし座標の持ち方が、中井さんの著作に影響を与えていることは相違なく、それが読者を増やしているのではないかと想像する。

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第189回深夜句会(2/15) [俳句]

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(選句用紙から)

植木屋の荷台で昼餉四温かな

季題「三寒四温」で春(早春)。
一日仕事をお願いした植木屋さんが、お昼になって、トラックの荷台でお昼を食べている。自宅から持ってきたお弁当をつかっているのか、コンビニのおにぎりなのか、いずれにしても、トラックの荷台でお昼ごはんがいただける季節になってきたことがわかる。
1ヶ月前なら寒くてそれどころじゃないし、夏になったら今度は熱中症で危険なわけだけど、季節のうつりかわりが、植木屋さんのお昼ごはんでわかるところがいい。

こぼしたる二ひら三ひら梅の昼

梅の咲くころには強い風が吹いていることが多いのだけど、きょうは珍しく風のないよい天気だ。そこへ梅が一ひらまた一ひらと、梅鉢からこぼれるように落ちていく。「梅の昼」がいいですね。

轍立ちそめて淡雪頻りなる

季題「淡雪」で春。淡雪といえども降るときは降るぜ、というわけで早くも道路に轍が立ち始めている。しかしその轍は、真冬の雪の轍とはおのずと異なっていて、最初から最後までぐちゃっとした轍なので、歩きにくいことおびただしい。歩行者の舌打ちが聞こえてきそうだが、それにも構わず淡雪が降りしきっている。淡雪の轍、までが季題といってもよいかもしれない。

(句帳から)

春浅き駅裏喫茶店の客
うららかやお昼休みをまう少し


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中井久夫集3 「世界における索引と徴候 1987-1991」(みすず書房、2017) [本と雑誌]

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はたと膝をうつ、という言葉があるのだけど、統合失調症の典型的な症状でる妄想について中井久夫氏が書いているこの一節は、なかなかうならせるものがある。
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自然な“虫の知らせ”(予感や余韻)に耳を傾けないからこそとんでもない妄想に頼るのである。妄想が何であれ、妄想者は信じてもほぼ安全であることを疑い、信じる根拠のないものに軽々しくとびつく。容易に信じない懐疑者であると同時に軽信者でもある。彼らを軽信させる大きな動因に権力意志がある。私は俗的な権力意志ぬきの妄想者を知らないくらいである。
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以上引用終わり(「統合失調症の精神療法」p.101)
もしこの指摘が事実だとして、さらに、妄想者が総人口に対してそこそこの比率で存在するとしたら、これによって説明のつく社会現象がありそう。あれとかあれとか。

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第188回深夜句会(1/11) [俳句]

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自分にとっては今年の初句会。不在投句が3人となかなかの盛況。
来年1月が、ちょうど200回目になるのですね。

(選句用紙から)

元朝に弾かれゐたるパスワード

元日の朝なので、さすがに職場ではなく家のパソコンだろう。仕事で使うシステムではなくて、趣味のサイトとかショッピングとかなんでもいいけど、そのサイトに久しぶりに行ってみたら、あんまり久しぶりなのでパスワードが思い出せないとか認証のしくみが変わったとか何かで入れなかった、という句。「元朝」でヒマなので、普段は行かないサイトに行ってみた、というところを「元日」「元旦」といった季題と紐づけて読むのだと思う。

厳かに上座の父の御慶かな

季題「御慶」で新年。これが1950年代とか60年代だったら、こういう風景は当たり前すぎて俳句にならないし、むしろ人によっては反感の対象になったりしたのだろうけど、2024年のいま、この句が詠まれていると、読む方としては、ああ昔はこうだった(らしい)なぁ、という独特の感慨を覚えると思う。ノスタルジアとかいうのでなく、そうだよね(そうだったよね)という共感。

裸木の毛細管のごと天へ

季題「裸木」で冬。当たり前のようで当たり前でない句。枯木の枝を毛細血管に見立てること自体は、おそらく類句があると思うのだけど、それが毛細血管として「天へ」連なっているように見えるということは、この裸木は、枝の細かさが見える程度の微妙な高さがあるということ。そこを楽しむのだと思う。たとえば旧街道沿いの欅並木なんかは、天をつくばかりの高さになっているけれど、枝のある場所も高すぎて、毛細管には感じられない。逆に庭に植えたばかりの木だったら、枝は毛細管のように見えるかもしれないが、「天へ」にはならない。そのあいだのどこかに、枝の細かさも見えて、かつ天に通じるような高さがあることになる。

(句帳から)

初荷これ珈琲豆の麻袋
人日や老年内科予約票
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第187回深夜句会(12/14) [俳句]

寒くてもみなさん元気。俳句好きには、どの季節も俳句の季節。
深夜句会も187回目。2025年のお正月には計算上200回になる。

(選句用紙から)

冬帽の上司となりて帰りけり

季題「冬帽子」で冬。詠み手の意図がよくわかります。仕事中はネクタイジャケットでビシッと決めていた男性上司が、オフィスを立ち去るときにニット帽なんかをかぶっていると、これがまぁ別人のように老け込んだ感じに(もっと素直にいえば、おじいさんに)見えてしまうのですね。これが夏帽子だと、おしゃれなものなので、そういう効果はないのだけど、冬帽子は怖い怖い。上司の冬帽じゃなくて冬帽の上司としたところも巧み。

古暦はづして壁となりにけり

季題「古暦」で冬(歳晩)。一年間壁に掛けてあったか貼ってあった暦を外すと、それは壁面になった、と鑑賞すると何が面白いのかわからんと言われそうだが、いままで暦という「機能」をそこに見ていたのに、それが突然壁という、何の機能もなくメッセージも発しない「事物」に置きかわってしまったことへの驚きと、外した後が微妙に跡になっている(暦のかかっていたところだけ、壁紙がやけていないとか)ことの両方が面白いのだと思う。実際には、新しい暦を持ってきてその場でかけかえることが多いと思うのだけど、何かの理由で、先に今年の暦だけを外したのだろう。

残菊の鉢を並べて路地住まひ

季題「残菊」で冬。丹精込めて育てた菊鉢ではなく、植えっぱなしで無造作に放置されている菊が連想され、従って、並んだその鉢に路地の泥はねがこびりついたままになっている風景が思い浮かぶ。表通りでもなく、お屋敷町でもなく、農山村でもない、「路地住まひ」らしさが、並べられた残菊の鉢に表現されているように思う。

(句帳から)

風花や病院の屋上にゐて
住んでゐた町を通過し冬の夜
昼飯を食べにそこまで冬ぬくし

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中井久夫集2「家族の表象 1983-1987」(みすず書房、2017) [本と雑誌]

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「治療文化と精神科医」で描かれる日本の地域性(地方ごとの疾患の現れかた)が、自分の実感と(また、世間でよく言われることと)一致しているのに驚く。単なるイメージでなく、実際の疾患の内容自体に大きな地域差があるとすれば、それは精神的風土に関して、少なくともこの稿が書かれた時点において、国内に大きな地域差が実在したことの裏付けに外ならない。

めっぽう面白いのは「ジンクスとサイクルと世に棲む仕方と」で、しかしいい加減な話ではなく、それが存外合理的なものであることを指摘し、また、医療の世界自体がそうした巨大な自然現象に対して小さな力しか持ちえないことを述べる。「医療の世界が、船乗りの世界のような、ジンクスの多い社会に思えてくる。いかに大きな船舶でも大洋に比べてはものの数ではない。」(p.68)「あかあかと灯をともしながらひっそりと静まりかえっている深夜の病院も、暗夜の海を行く巨船である」(p.69)というくだりは、なるほどそうだと思わせるものがある。(「ジンクスとサイクルと世に棲む仕方と」)

もう一つ、「強い相互作用と弱い相互作用」という考え方は、家族だけでなく、社会のあらゆる場面で有効なツールになりうるもので、例えば直属の上司と部下の関係が強い相互作用だとすれば、同期入社の社員同士はやや強い相互作用、社内の勉強会やサークルは弱い相互作用ということになるのだろうけど、いまどきの組織で求められているのは、弱い相互作用にもとづいた「社員の安全な居場所」をつくることだったりする。(「『つながり』の精神病理」)


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第186回深夜句会(11/9) [俳句]

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(選句用紙から)

一群の落葉に後れたる落葉

季題「落葉」で冬。落葉つまりすでに散り敷いている木の葉が、風に吹かれて歩道やグランドのような場所を動いているのだとすると、それがまとまって沢山動いている後ろから、少し追いかけるように遅れていく落葉がある、といった風景だろうか。
もう一つの読み方として、「落葉する」という言い方があるように、現に落ちている葉を詠んでいるのだとすると、まとまった数の葉が落ちた後を追うように、少数の葉が落ちてきた、という句になる。

里をゆくひと駅ごとの冬日和

山中ではなく、大都会でもない。「里」なので、田畑のところどころに集落があるような風景。そうした中を走っている列車が、ときどき駅に止まるのだけど、どの駅にも冬の日が暖かく射している。一駅ごとに周囲の人家や商店の様子は少しずつ違うけど、冬日だけは同じ。


(句帳から)

夜霧には夜霧のにほひありにけり


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中井久夫集1「働く患者 1964-1983」(みすず書房、2017) [本と雑誌]

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ああそうだったのか、と思う。

初めて中井久夫さんの著作に接したのは、阪神大震災後の一連の著作だと思っていたのだけど、この巻の最後に納められている「精神科医としての神谷美恵子さんについて」の初出は、同じみすず書房から出ていた「神谷美恵子著作集別巻 人と仕事」(1983.4)なのですね。そうすると、これがおそらく、二十歳そこそこの自分が初めて読んだ中井さんの文章になるのだと思う。
その最後の章である「8」に記されているエピソードは、神谷美恵子さんの存在の大きさを描くとともに、中井さんの眼差しをも感じさせる名文だと思う。また、最初に接したのが精神科医としてのもっとコアな内容だったら十分に理解することができないまま終わったであろうことが明らかなので、この出会いは幸運だった。



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第185回深夜句会(10/12) [俳句]

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秋らしい秋の日、とわざわざ言わなければならないほど、このところ夏から冬へ一直線に毎日気温が下降していくのはどうしたことか。

(選句用紙から)

抜かれたる案山子の空を見上げたる

季題「案山子」で秋。稲刈りを前に抜かれた案山子が地面に放り出されて横になっているのだけど、その顔が空を見上げているようだ。もともと人間に似せて作ってあるので、横になってもそうであるはずだが、これが横倒しになると、まったくそうは見えないというか、「放心状態の案山子」とでもいうべき物体になってしまう不思議。

パン焼けてミルクホールの秋灯

ミルクホール、いいですね。京都大学の門の前にある駸々堂(だったっけ?)などが想像されるのだけど、クラシックな、大きな木のテーブルがあるようなミルクホールに、朝から晩まで学生や社会人が入れ替わり立ち代わり座っている。日が傾いてきてあかりが灯るころになっても、遅くまで食事をする利用者のためだろうか、パンを焼き続けているのですね。夏のあいだはうっとうしかったそれらの温かいものが、気温が下がると急にいとおしく感じられる。一年中パンを焼き続けているし、一年中あかりはともっているのだけど、この季節のこの場所は格別だ、ということがすとんと腑に落ちる。

空の底ゆらしてむくの群うねり

季題「椋鳥」で秋。最近しばしば話題になるむくどり大群を描いているのだけど、「空の底」が眼目。「雲の底」という言葉はある(たぶん気象用語だろう)けど、空に底があるかのように、一面に広がって飛んでいる、と解するのだろう。それほど数が多い、ということ。で、そのあとに「群うねり」で波のように群れがうねっているというのだけど、「雲の底」でもうお腹いっぱいなので、そこまで言わなくても十分なのではないかと。

(句帳から)

一人づつパソコン閉ぢてゆく夜業


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津村記久子『やりたいことは二度寝だけ』(講談社文庫、2017) [本と雑誌]

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それぞれの記事の初出が知りたい。特に、「『女が働くということ』に関する原稿」(pp.230-232)の初出が。この記事は、最後のエピソードがすばらしい。今の津村さんなら、また別の表現を考えるかもしれないが。

エッセイを読むことでその作者の小説がよく理解できることはままあるが、この本もそうで、津村さんは、規範を示してそれに合わないものを排除するというスタイルをとらない。むしろ反規範といってもいい。しかし何でもありなのかというとそうではない。内面化された「構え」のようなものがある。それを掘り下げているのは本書ではなく、深澤真紀さんとの共著「ダメをみがく "女子”の呪いを解く方法」(集英社文庫、2017)で、「どうしてもあかんこと以外はやり合ってもしょうがないのだから、やりすごすとか気にしないとか時期をずらすとかしかない」という津村さんの達観が淡々と語られる。ここでは失礼ながら、深澤さんが津村さんに人生相談をしている風になっていて、知識や規範にがんじがらめに縛られ、かつ自分語りをやめられない深澤さんに対して、津村さんがあっさりと薄味の答えをするのだけど、どう考えても津村さんの方が10歳ぐらい年上に感じられる。言葉の成熟度や選ばれ方のレベルが違うということなのだろう。
 
全然本題と関係ないのだけど、芥川賞受賞作「ポトスライムの舟」の原稿データを編集者あてにメールで送信したあとのことについての記述(p.207)は、津村さんがどれほど考え抜いて表現を選び、小説を仕上げているかがうかがわれて面白い。
 
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第184回深夜句会(9/14) [俳句]

いつまで続くこの暑さ。

(選句用紙から)

おしろいやコーポの脇に屋敷神

郊外の農家の大きな敷地の一角に、相続税対策を兼ねてアパートが建てられている。
そのアパートには「コーポ◯◯」のような名前がついて、そこから都心に人が通勤しているのだけど、農家の敷地だからして、その近くには屋敷神(お稲荷さん)があって、屋敷は取っ払うわけにもいかずにそのままになっている。コーポ◯◯と屋敷神のあいだの狭い隙間には、今年も白粉花が咲いている。
「コーポ」がいいですね。メゾンなんとかとか、カーサなんとかとか、そういう小洒落た(実質はともかく、名前だけは小洒落た)集合住宅ではないわけで。

供養塔あまたある町蝉時雨

この町がニュータウンとか新しい埋立地の町ではなく、歴史があってかつ供養塔がたくさんあるぐらい自然災害や戦災にさらされてきたこと、さらに供養塔がきちんと残されているような、再開発という名の破壊が行われていない、歴史と伝統のある町であることがわかる。
そこにたくさんの蝉が生まれては死にながら鳴いているのだけど、見方によってはその生き死にが(蝉といえば生き死になので)「つきすぎ」のように感じられるかもしれない。ただ、これは眼前の風景なので、そこは響き合う関係を感じればよいと思う。

(句帳から)

ゆくりなく母を入院させ九月
煉瓦館の茶色に似合ふ秋の晴

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藤岡陽子「金の角持つ子どもたち」(集英社文庫、2021) [本と雑誌]

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中学受験って自分の全くあずかり知らぬ世界なのだけど、受験を通じてこどもが大人を成長させていく物語も成立しうるのですね。この点に感心することしきり。

藪柑子的には、多くの方が言及しておられる加地の兄弟愛よりも、受験前日の加地と宝山美乃里の会話、というより加地の美乃里への言葉が印象に残った。ここで二人は先生と生徒という役割を離れて、まったく対等に話している。バトンを渡す加地のさしせまった心情(=そこまで読みすすめてきた読者の思いでもある)も、それを受け取る美乃里の気迫(=そうでない者がごまんといるだけに)も、どちらもすばらしく、涙なしには読めない。全藤岡作品中(って、全作品読んでいるわけではないのだけど)屈指の名場面だろう。この場面だけでも、読んでよかったと思える。

また、ありふれた感想になるが、人に何かを教えることの難しさや、逆に人から何かを学ぶことの面白さが、この本には山盛りになっていて、教えるにしても教わるにしても、この点をいつも心の隅に置いておきたいものだと思う。
 
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第183回深夜句会(8/24) [俳句]

(選句用紙から)

(句帳から)

北向きの緩斜面なる柳蘭
溝萩の色うしなはれ花のあと
二分の一四(し)分の一の南瓜かな

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津村記久子『サキの忘れ物』(新潮社、2020) [本と雑誌]

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第1話「サキの忘れ物」がしみじみといい話。特に、終わり方がすばらしい。
また、最終話「隣のビル」は、登場人物が理不尽な職場に疲れ果てていることと、ちょっとファンタジー風味が入っていて、「この世にたやすい仕事はない」を連想させる。

関係ないけど、津村作品には紅茶にくわしい人物が時折登場し(『とにかく家に帰ります』とか)、どれも悪くない書かれ方をするのだけど、何か特別な意味があるのだろうか。

(8.28追記)津村さんの『やりたいことは二度寝だけ』(講談社文庫、2017)を読んでいたら、津村さん自身が紅茶好きで、日常的にたくさん紅茶を飲まれていることが判明。だから描写がすごく具体的になるのですね。

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