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中島京子『樽とタタン』(新潮文庫、2020) [本と雑誌]

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出張に持参した本を往路で読み終えてしまい、現地の本屋さんの新刊台から選んだ一冊。雨が降る寒い日だったのに、復路の電車が暖かく感じたのは、この本のおかげかもしれない。

いわゆる「いい話」とはちょっと違うのだけど、
 ・こどものころのトモコの視点
 ・大きくなって物書きになったトモコの視点
 ・作者すなわち中島京子さんの視点
が巧みに混同というかソフトフォーカスで描かれていて、さらに一つ一つのエピソードも、小説の中でさえも現実であるようなないような、ふわっとしたファンタジー風味になっている(軽いホラー風味といってもよいかもしれない)。この味わいは、単なる懐古とはまったく異なるので、誰でも共感できるとまではいえないだろうが、「過去って、べったりと懐かしいものではなく、そういう不思議な面があるよね」という了解ができる人なら、文句なく楽しめると思う。最後にトモコがその場所を訪ねるくだりは、そっけなく書いてあるだけにいっそう思いをかきたてる。

著者の他の作品を読んでみたくなる一冊。

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第149回深夜句会(10/8) [俳句]

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(選句用紙から)

半分の半分に割る青蜜柑
 季題「青蜜柑」で秋。「半分の半分」のリズム感が心地よい。また、まず半分にして、それをさらに半分にしていく様子、手の動きが見える。

牧場に残る学び舎蔦紅葉
 季題「蔦紅葉」で秋。俳句以前に、こういう場所があることに惹かれた。牧場の中に学校があるというからには、ずいぶん大きな牧場で、そこでたくさんの若者が働きながら学び、共同生活を営んでいる(いた)と想像される。あるいは、そこで働いている人たちの子弟が通っていた小学校なのかもしれない。インドの大きな茶園のようだ。どうした事情か今は使われていないその校舎に蔦がからみ、紅葉している様子は、その校舎を今も大事に守っている人たちの気持ちや、もうすぐやってくる冬の厳しさを想像させたりもする。

眉かくす帽子の上の秋の雲
 いろいろな帽子のなかには、頭頂部にちょこんと載っているだけのような帽子もあるのだけど、これは目深にかぶると眉が隠れるような帽子、たとえばビーニーのようなニットキャップなのだろう。といっても、冬帽子というほど厚手のものではない。
 で、その眉と帽子は相接しているというか隣り合っているというか、まあ至近距離にあるので、「眉かくす帽子の上の」と来ると、その帽子のすぐ上には何があるのだろう、虫がとまっているのか、それとも傘でもさしているのだろうか、と思わせておいて「秋の雲」と落とす。このストンとくる感じ、軽妙洒脱な感じが俳諧味なのだろうと思う。

倒木に虻の翅音や秋日影
 森のなかの倒木。みっしりと植林された森だと、全体が「秋日影」になってしまうが、ここは雑木林のような場所で、日があたっている場所と日陰とが入り混じっているのだろう。で、作者は倒木の近くにいて、あるいは倒木に腰掛けて、虻のわずかな翅音を聴いている。虻の姿は、日向日陰を出入りするたびに見えたり見えなくなったりするのだけど、翅音はずっと続いている。もしこれが日影(夏の日影)だったら、この句はあまり面白くない。秋の日影であることが、やがてやってくる冬に向けて、森のなかの命がそれぞれに備えようとしていることを連想させ、それ一句の通奏低音のような効果をあげている。

(句帳から)

ラジオつけたまま木犀の家
薄紅葉かつてケーブルカーありき

 
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小池昌代『弦と響』(光文社文庫、2012) [本と雑誌]


「本の雑誌」10月号に、弦楽四重奏団のラストコンサートを描いた小説として紹介されていたので、さっそく読んでみたのだけど…

弦楽四重奏曲に限らず、デュオでもトリオでも、それがたとえ初心者のアンサンブルでも、楽器と楽器とが音を重ねることの素朴な喜びみたいなものが必ずあるのだけど、どうしたことか、この小説にはそれがあまり感じられないのが残念。たまたま題材が弦楽四重奏だっただけ、といったら言い過ぎだろうか。ひとつひとつのエピソードは楽しくて、よく取材されていることが窺われるのだけど。

 
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第148回深夜句会(9/10) [俳句]

4月からWebに切り替えたのだけど、そのときには、ほんの1~2か月の緊急避難のつもりだった。それからもう半年。深夜まで開いていて、そこそこ安全そうなお店が、なかなか見つからない。

(選句用紙から)

変電所際に波打つ真葛かな

 季題「葛」で秋。葛の花も秋の季題だが、ここでは伸び放題に伸び広がった葛のようすを「波打つ」と詠んでいる。斜面や窪地などの葛を見ていると、もはやどこが根元なのかもわからないほど伸び広がり、折り重なって、まるで海のように空間を埋め尽くしていることがある。それが風に吹かれているさまは、なるほど「波打つ」なのかもしれない。
 加えて、この句が成功しているのは、それが「変電所」つまり、無人の大きな建物の「際」にあるというところ。多くの人が頻繁に出入りする建物であれば、隣地の葛もどこかに片付けられてしまうかもしれない。しかし、変電所は、大きくかつ重要な建物でありながら無人なので、葛は顧みられることもなく伸び放題になって、敷地境のフェンスにまで這い登っているのかもしれない。変電所「裏」とか「横」とか言わず、「際」として、境界まで葛が攻めかかろうとする勢いを示した点も巧み。

ゴーヤーの影青々と保健室

 季題「苦瓜」で秋。グリーンカーテンなどという言葉もあるように、夏の暑熱を遮るため、よしずのように蔓性の植物を育てることが近年勧められているが、ここではそれが、学校の保健室の外で育っている。網かなにかを掛けて、そこにゴーヤーを這い登らせているのだろう。ゴーヤー自体でなく、その「影」が青々としている、という観察もさることながら、それが「職員室」や「用務員室」ではなく、それほど人の出入りのない「保健室」(=繁茂しても邪魔扱いされない)だというところが、いかにもそれらしい。

秋夕焼色新調す世界堂

季題「秋夕焼」で秋。単に夕焼といえば夏だが、秋夕焼となると、華やかさとか力強さの代わりに、より淡くて繊細な色合いの夕暮れが想像される。こうした空の色の表現は、日本語にもどの言語にもたくさんあるのだろうが、ここでは、それが絵具の名前になっていて、その絵具を画材店へ買いに行くという設定になっているのがちょっとファンタジー風味とでも言うのか、面白い。それも「夕焼色」なら実在しそうなところ、あえて「秋夕焼色」だというのだ。それなら冬夕焼色とか、(夏の)夕焼色もあるのだろうか、などと突っ込みたくなる楽しさがある。ただ、少し情報量が多すぎて窮屈になってしまっているので、「秋夕焼色の絵具を買い求め」ぐらいでもいいのではないだろうか。

(句帳から)


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先崎学『うつ病九段』(文春文庫、2020)【一部ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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まだ7月だが、今年のベストワンはこれになるのではないかと。「なるほど」の連続。

自分や家族のうつ病についての経験談は数限りなくあるけれど、これは出色の一冊。その理由は、
・もともと筆の力のある人なので、「心の状態」というむずかしいことを、リアリティーをもってうまく説明できていること
・回復の過程が棋力を通じて測定(検証)可能だという観察が、とても説得的であること
の二点。

一点目については、著者自身が「エピソードが少なすぎる」(p.162)と書かれているが、全然そんなことはない。シャワー室でシャワーを浴びて「かすかな心地よい感覚にすごく懐かしいものを感じた」(p.32)箇所とか、回診中の教授とのやりとり(pp.53-4)とか、後輩の何気ない一言に感激する(p.74)とか、読んでいるこちらが思わずふうっと息をついてしまいそうな迫力がある。ついでに、ジンギスカン屋で隣の女性から布教されてしまう場面(p.121-2)なんかも、やっぱりそうだよね、と思わせる。角田光代さんが「インタビューなんかじゃなく、自分で(この本を)書いてください」(pp.161-2)と強く勧めたのがよくわかる。
ただ、腰巻きに使われているエピソード(p.98)は本題からちょっと外れているように思われ、編集者がなぜこれを使おうと思ったのか疑問が残る。

二点目については、病院の看護師さんと将棋をさすエピソード(pp.47-8)を振り出しに、そこから長い長い時間をかけて回復していく過程がきわめて具体的に(ここ重要!)綴られており、納得がいく。これが例えば、事務の仕事だったら、出来栄えが向上したり劣化したりしても、認識も測定もなかなか難しいところ、本書のように書かれていれば、将棋をまったく解さない自分でさえ、なるほどそうなのかと思う。

また、この経過を読んでいると、人間が「社会」に属して生きている動物だということを痛感する(マギー、聞いてる?)。

余談。この本では「ヒマ(退屈)と感じるかどうか」が回復を示す物差しのひとつとされているし、「ヒマを感じないというのは、うつの症状そのものといってもよいのではないだろうか。」(p.63)と書かれている。また実際、時間の経過とともに退屈を覚えることが多くなり、「これが脳にエネルギーが溜まってきた証拠である」(p.134)とも書かれている。これと裏返しのように、著者が発病直前まで大変な激務の渦中にあって、それが落ち着いたところで病気が始まったことも、示唆的である。激務かどうかは別として、ヒマを感じるかどうかという物差しだとしたら、勤め人の多くは、もう何年も、ヒマだと感じたことがないのではないだろうか(そんなことはないか。でも自分についていえば、2005年ごろからもう15年ぐらい、一度もヒマだと感じたことがないが…←これはこれで別の病気)。

本筋とは関係ないが、著者は自らについて「棋士のなかでは感性を大事にするほうであり」(p.152)と述べている。直感重視だとも書いている。ここでいう「感性」がどのようなものなのか、素人にはよくわからず残念なのだが、しかし例えば「将棋界は芸の世界で、先輩が後輩にこの世界の美しさ、存在意義とうを語りつぐ、あるいは姿勢を教えるものだという伝統があり、私もそういう教育を受けて育った。しかしいつごろからかそうした風潮が薄れつつあり、私は常々不満に思っていた。」(p.102)という物言いからは、どちらかといえば規範意識の強い、俗にうつ病になりやすいとされる性格のようにも思われるのだが。

(9.20追記)
著者に向かって精神科医がこう言う場面がある。「医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ!」
俳人だったら、これを読んでおおっと思うわけですね。風の音や花の香りや色を取り込むといったら、俳句を詠むときにやっていることそのものではないですか。そうすると俳人は、うつ病になっても回復しやすいのだろうか。いや逆に、そういう習慣があるにもかかわらずうつ病になってしまうとしたら、重いうつ病になってしまうということなのだろうか。
 
 
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川端康雄『ジョージ・オーウェル ー「人間らしさ」への讃歌』(岩波新書、2020) [本と雑誌]

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ベストワン確定などと断言してしまうと(前の記事)、その直後にこういう本が現れて、しまったと思うわけで。

オーウェルというと、とかく「1984」の著者という部分が前景化してしまいがち(これは仕方ない)なことから、それ「以外」をきちんと拾って生涯と作品を追っていく試みは、たいへんありがたい。著者は、平凡社ライブラリーの「オーウェル評論集」や岩波文庫の「動物農場」の訳者でもあり、オーウェルについてまとめて講義してもらうには最適の先生のひとりだろう。

全体のストーリーとも関係するが、オーウェルが制作したBBCのインド向けラジオ放送を、海軍軍属としてジャワ島で働いていた鶴見俊輔が聴いていたというエピソード(pp.172-3)が胸アツというか、すばらしい。オーウェル自身は、こんな放送誰も聴いてないだろうと思っていた(仕事自体が、ムダな仕事だと考えていた)らしいが、全然そうではなかったのだ。私たちは、オーウェルの著作から直接に影響を受けるだけでなく、鶴見俊輔の多方面にわたる業績を経由する形でも影響を受けているとすれば、それは素晴らしいことではないかと。 

オーウェルが最後までこだわったdecencyというキーワードは、日本語化するのが難しいことばだが、イギリスの社会を念頭におくと、とても納得できるというか、思想A対思想Bみたいな捉え方でなく、その他のどれでもない(どれとも比較のしようがない)decencyという物差しが、とてもイギリス的だと思う。この本にも出てくる"England, Your England"の、大上段に構えない静かな物言いが、とても好きだ。

ジュラ島への転居、そして死が近づいてくる最後の2章ぐらいは、あえて淡々と書いてあるだけに涙なしには読めない。こんな経過があったのですね。それにしても、なぜストレプトマイシンが効かなかったのだろう?他に治療法はなかったのか?

最後に、腰巻に「オーウェルの憂えた未来に/私たちは立っているのだろうか」とあるのが意味深なのだけど、立っているどころか、その憂えた未来に嬉々として突進してい(以下自粛)
 
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第147回深夜句会(8/6) [俳句]

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(選句用紙から)

広重の雨の中なり百日紅

 季題「百日紅」で夏。真夏の強い日差しとあわせて詠まれる句が多い中で、この句は夏の 雨のなかの百日紅を詠んでいる。降りかかるその雨が、「広重の雨」だというのだ。斜めの 細い線で歌川広重が描く、あの雨である。広重の雨は、なにも夏に限ったものではないだ ろうけれど、にわかに降り出した強い雨に右往左往する人の様子などが思い浮かび、そう すると、この百日紅も、そうした、人が行き交う広い道に植えられているのだろうか。

ひぐらしや母の籠つてゐし書斎

 季題「蜩」で秋。かつて母が使っていた書斎で調べ物か書き物かをしていると、窓の外でひぐらしが鳴いているのが聞こえる。哀れをともなうその音色に、ふと、母がここにこ もっていろいろな仕事をしていた頃のことを思い出す。甘すぎない母恋の句。

マンションと擁壁の間の梅雨晴間

 季題「梅雨晴間」で夏。すこし鑑賞が難しいが、マンション「の」でなく、マンション「と」なので、マンションとは別の構造物として擁壁があることになる。そうすると、ま ったいらな場所のマンションなら擁壁の出番はないので、丘陵地の斜面とかに、段々畑の ように土地を造成してマンションが建てられているような状況が想像され、その擁壁とマ ンションのあいだの、二本の直線で切り取られたような空が、きょうは梅雨の晴れ間を見せている。

洗ひ髪伸ばすつもりもなく伸びて

 季題「洗ひ髪」で夏。洗い髪が⻑いことをいうのに、直截に⻑いとは言わず、「伸ばすつ
もりもなく伸びて」という含みのある表現をとった。当節だと、理屈をいえば「行きつけ の美容室がずっと休みで、仕方なく」みたいな鑑賞もできるのだろうけど、それはあまり 楽しくないので、やはり「伸ばすつもりもなく伸び」た事情を詮索...いやなんでもない。

(句帳から)

地図上は破線の径がある夏野

 

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池澤夏樹・池澤春菜『ぜんぶ本の話』(毎日新聞出版、2020) [本と雑誌]

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 本好きな人なら誰しも、15歳ごろまでに好んで読んだシリーズとか作者があるはずだが、この二人がどんな本を読んできたのか、どの本のどんな細部に惹かれたのか、それを聞くだけでも楽しい。たまに自分と同じ経験をしていたり、自分の好きな本を評価していたりすると、なお嬉しかったりする。
 他方、「そんな本があるのか!じゃあ注文しよう」となってますます本棚がふくれあがる悪夢が…

 第7章の「読書家三代 父たちの本」(この7章だけでも、この本を買う価値がある)に続いて、巻末に「父の三冊」と題するエッセイが置かれ、そこで池澤夏樹が福永武彦の、また池澤春菜が池澤夏樹の三冊を選んでいるのだけど、それが一冊たりとも、自分(藪柑子)が考える三冊と重なっていないのが面白い。


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小野寺史宜『食っちゃ寝て書いて』(角川書店、2020) [本と雑誌]

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 大活劇が好きな人には、何も起こってなくてつまらないと言われそうだが、一見何でもないことを積み重ねていって、人の深いところにある何かが少しずつ見えたり変わったりし始めるところがいい。高浜虚子が「ボーッとした句やヌーッとした句を希求する」と公言していたことを思い出す。

ただし、腰巻きの「大人の青春小説」「再生の物語」という惹句はいただけない。そういうどぎつい表現や、これを「再生」と捉えるような思考を否定したいのが、横尾成吾の本領(この本の主旨)なのではないかしら。たとえば、横尾と弓子のこんな会話。

(以下引用)
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「限りなく拒否に近い保留、くらいには思ってていいのか?」
「拒否って言葉はキツいわね。だったらただの保留でいいわよ」
「永遠の保留だ」
「永遠の保留。それ、小説のタイトルにすれば?」
「カッコ悪いよ。永遠なんて言葉、おれ、小説で一度もつかったことないんじゃないかな。少なくとも、そんなふうにカッコをつける感じではつかってない」
「そこが横尾の小説のいいとこだよね。わたし、横尾と知り合いではなかったとしても、横尾の小説は読んでたと思うよ。好きになってたと思う。」
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(以上引用終わり)

また、終わり方も(面白い工夫があるが)やはり何も大事件は起こらないながらにいい終わり方でほっとする。こういう着地のしかたもあるのですね。

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第146回深夜句会(7/9) [俳句]

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仙台の紅茶専門店「ガネーシャ」のおやつ。
なかなかリアル句会を復活させることができない。

(選句用紙から)

黒髪の母のその子の夏帽子

季題は「夏帽子」。「黒髪の」は、枕詞の「黒髪の」ではなく、髪の美称としての「黒髪」であろうか。
自分なら「母もその子も」とやってしまいそうだが、それだと説明になってしまうし、夏帽子に焦点が合わない。そうではなく、「母のその子の」としたことで、「母の夏帽子、その子の夏帽子」となって、一句の中心が夏帽子にきちんと落ち着く。なお、母のうしろをついて歩くこどもを思いうかべても鑑賞は成り立つのだけど、例えば、母が抱っこひも(エルゴベビーみたいな)で赤ちゃんをだっこしていて、その赤ちゃんも小さな夏帽子をかぶっていると想像すると、母の夏帽子と子の夏帽子の距離が近くなり、「母のその子の」が描こうとしている風景に近いのではないかと感じる。

救急車の赤きが光る梅雨の夜

季題「梅雨」。赤く光る救急車の赤色灯を詠んだ句は多くあると思うが、雨が降り、雲が低くたれこめている梅雨の夜に近づいてくる救急車の赤色灯は、厳寒の夜とか晩春の夜のそれとはまた異なった禍々しさを感じさせる。

調律の終はりしピアノ夏の雨

季題「夏の雨」。調律が終わって音が整えられたピアノから連想されやすいのは、秋や冬の澄んだ空気だと思うのだけど、この句はなぜ「夏の雨」なのだろう。もちろんそういう状況は実在するが、せっかくの調律が一発で狂ってしまう高音高湿の「夏の雨」と調律をどう結びつけて鑑賞すればよいのか…としばらく考えて思い出したのが、宮下奈都「羊と鋼の森」(2015、文藝春秋)に出てくるエピソードだ。古い小さな家にひとりで暮らす青年が、十五年ぶりに調律を依頼する。十五年前には家族で暮らしていて、親が調律を頼んだのだろうが、何らかの事情でいまはその家にひとり逼塞している青年は、誰かのためでなく、自分のためにピアノを弾いている。そうであっても、そこにはピアノを弾く歓びがあって、コンサートホールで弾かれる音楽と優劣があるわけではない、といったエピソード。これを念頭におくと、夏の雨が窓から見える、家庭のピアノ(コンサートホールの中からは、夏の雨が見えない)で、あらかじめ予定されていた調律がいま終わったところが想像される。

(句帳から)

この雲の上に花野のあるらしく
バビロンに至る街道夏の月

 
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ジャン=クリストフ・リュファン『永遠なるカミーノ フランス人作家による〈もう一つの〉サンティアゴ巡礼記』(今野喜和人訳、春風社、2020) [本と雑誌]

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 スペイン巡礼の道を歩いた手記はたくさんあるのだけど、その多くは、ガイドブックの劣化コピーとは言わないまでも、単なる行動記録またはお小遣い帳になってしまっていて、「書いてあることは本当だと思うけど、なぜこの道を選んだのかとか、自分の内面がどう変化したのかとか、そういう深い部分がわからない」という不満があった。
 そこへこの一冊が登場。こういう本を待っていました。巡礼を肯定的にとらえつつ、同時に、その巡礼自体を批評してやまない(時として、それは同時に行われる)ところがいい。もっとも、華やかな話はほとんどないので、長い距離を歩くこと自体が大好きでないと、入り込めないかも。

 しいて残念な点を挙げるとすれば、エキゾチックなものや土俗的なものを「仏教的」のひとことで片づけてしまうところ。著者のような知識人でもこんなものだろうか。私にはむしろ、ここで「仏教的」と表現されたものの多くが、東方正教会的に感じられるのだけど。

(8.13追記)
本書の至るところに、気のきいたというか、そうだよなあと思わせる説明があるので、いくつか引用してコメントを。
(以下引用)
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私のしわくちゃで汚れて日に灼けたクレデンシャルを見ていると、祖父が戦時中の捕囚生活から持ち帰ってきた紙切れー配給券や診療票などーを思い起こす。抑留者にとってそれは無限の価値があり、どれだけ大事に身につけていたかと想像するのである。カミーノがこれと異なるのは、サンティアゴ巡礼が罰ではなう、自ら望んだ試練だということである。少なくとも本人はそう信じている。ただし、その考えは実体験によってすぐに覆される。カミーノを歩いたのは何ものかに強いられた結果だと、誰もが遅かれ早かれ考えるようになる(……)人は自由の精神を持ってサンティアゴに向けて旅立つが、ほどなくして自分も他の人々と同じく、単なる巡礼徒刑者さと思うようになる。(p.15)

巡礼路の最後の部分しか歩かないくせに、厚かましくもクレデンシャルを携えている連中のことを、真正の巡礼者たちはペテン師だと考える。フランスやその他のヨーロッパの国々から出発した巡礼者たちの、いつ終わるとも知れぬ旅と、何日間かだけ歩くウォーキングツアーが比べられるものか! こうした反応の中にはいくぶんスノビズムがある。けれども、カミーノを歩むにつれて、この考え方にもそれなりの真理があることを人は理解する。というのも、「本物の」徒歩巡礼者を作るには、時間が本質的な役割を果たすと認めざるを得ないからだ。カミーノは、〈時間〉が魂に働きかける錬金術である。それは一瞬で片付けることも、大急ぎでこなすこともできないプロセスである。何週間も徒歩で歩き通した巡礼者だけがそれを体験する。(p.17)

コンポステーラはキリスト教の巡礼ではなく、この事実を人がどう受け止めるかに応じて、それ以上のもの、あるいは、それ以下のものである。本来的にいかなる宗教にも属しておらず、実を言えば、中に込めたいものを何でも込めることができる。何かの宗教に近いとしても、宗教の中で最も宗教的でない宗教、神について何も語らないが、神の存在に人間を近づけてくれる宗教。コンポステーラは仏教的な巡礼である。思索や渇望から苦悩を解放し、精神から高慢を、身体から苦痛をすべて取り除く。事物を包む硬い殻を消し去り、事物を我々の意識から隔てる。自我を自然との共鳴状態に置く。(p.149)

ベルギーの若者は、巡礼者をほとんど見かけない自分の国とフランスを歩いたときのことを話してくれた。この二一世紀の初めに、至る所で思いがけず熱い歓迎を受けたという。村人たちは、果物や卵を頒けてくれて、コンポステーラで自分のために祈って欲しいと頼んだ。テレビとインターネットの時代に、巡礼者は思想や人間の交流を体現し続けている。メディアが代表し、警戒心やさらには不信さえ引き起こすバーチャルで速成の事柄と正反対に、巡礼者の動きは確かなものとして存在する。それは靴底にこびりついた泥や、シャツを濡らす汗によって証明される。信頼に足る存在である。(pp.182-3)

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(以上引用終わり)

同じ道を歩いても、考えることが人ごとに異なるのは当然なのだけど、カミーノが多くの人を惹きつける理由を最大公約数的に説明するとしたら、こんな感じになるのではないかと。

(8.23追記)
著者が歩いた「北の道」にくらべて、「フランス人の道」の盛況ぶりというか混雑ぶりが強調されているので、ハイシーズンに「フランス人の道」を歩くのはやめたほうがいいのだろうかなどと考えてしまう。

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第145回深夜句会(6/11) [俳句]

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先月同様、気分だけはカフェでの句会ふうに…

(選句用紙から)

 さみどりの中に生まれしトマトかな

 季題「トマト」で夏。トマトの赤い色を詠んだ句は数多くあるが、その赤が、緑色の壁ともいうべきトマト畑の中からぽつんぽつんと生まれてくる。赤い果実が緑の草木から生まれればみな同じことのように考えがちだが、露地にせよ温室にせよ、トマト畑は背丈を伴った緑色であって、ことによるとその蔭からあるじが出てきたりするぐらいのボリュームがある。その、上下左右どこまでも圧倒的な緑のあちこちに、ふと赤がきざして、トマトの実が「生まれて」くることの感興が詠われている。

つひの色深めて垂るる四葩かな

 季題「四葩」で夏。さまざまに色を変えて咲くあじさいの、そのいちばん最後の色がいっそう深まり、花全体が下をむいて垂れている。一句の眼目は「つひの色」にある。この句では、最後の色、つまり、青が強まったり赤が濃くなったりしたあげくの、その最後の色という意味で用いられており、ああなるほど、あじさいだからこそ「つひの色」があるのだと思わせる。
 他方、「ついの住処」とか「ついの別れ」などという言葉があるように、「つひ」は、人生の終わりを示すことばでもあり、そう読むと、さまざまに咲きついできたあじさいの花の終焉と読むこともできる、ただその場合、「垂るる」との距離が近すぎるかもしれない。

五月雨や二級河川といふ大河

 季題「五月雨」で夏。芭蕉の句や蕪村の句が「疑う余地のない大河」を詠んでいるのに対し、「二級河川という大河」なので、「河川法上は二級河川とされているが、しかしこの季節には増水して、二級河川という立派な大河なのだ」という句になる。比較的地元の生活に近い存在なのが二級河川でもあって、おらが村、おらが町の五月雨の様子として鑑賞することができる。

夏めくやキッチンマット洗ひたて

 夏めくは「夏らしくなる」。バスマット等と違って大きさがあるから、毎日洗うことが必ずしも想定されていないのがキッチンマットだが、きょうはそれを洗って干した。初夏の陽気でそれがきれいに乾き、その風合いを足の裏で(この季節なので、はだしで)楽しむことができる。季題が動かない。

(句帳から)

梔子の咲き疲れたる夜風かな
前線が通過してから青嵐

 
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第144回深夜句会(5/14) [俳句]

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気分だけは、カフェで句会をやってる風に…

(選句用紙から)

柿若葉けふも真新しき色に

季題「柿若葉」で夏。「若葉」も季題だが、特に柿の若葉は、ひとめでそれとわかるほど鮮やかな黄緑色をしていて、かつ、その色が何日も続く。きょうのような雨の日でさえ、そこだけ明るくなっているほどだ。通勤途上の公園あるいは生産緑地であろうか、思わず口をついて出た「けふも」という言葉が、柿若葉の柿若葉らしさを言い得ている。

レコードの音色のやうに霾れる

季題「霾」で春。黄砂の色や形について誰もがさまざまに詠むのだけど、これは意表をついた表現。アナログレコードをプレーヤーにかけたことのある人ならば、レコードにはジリとかパチといったノイズがつきまとうことをご存じだと思うが、避けがたいそのノイズの感じが、目に見えない黄砂のちりちりザラザラした違和感に通じるというのである。もちろん感覚なのだけど、そうだよね、という一句。

春雨の厚さの見ゆる街路灯

灯火が横からあたると、雨粒の大きさや密度がわかる。ここでは春雨に街路灯があたっているのだけど、大きさも密度も、それほど「厚い」わけではなかろう。さほどでもない厚さを、あえて「見ゆる」と表現したものと観賞した。

後れ毛の白髪きらめく薄暑かな

季題「薄暑」で夏。軽く汗ばむような暑さにあって、女性の後れ毛に光があたって白く輝いている。「銀髪」などという言葉もあるが、この句では、白髪も、そのあるじも、「きらめく」という少々通俗的な表現で肯定的に捉えられている。

(句帳から)

カメラから見えない位置にアイスティー


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君塚直隆『エリザベス女王』(中公新書、2020) [本と雑誌]

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映画「英国王のスピーチ」(2010年英豪米、トム・フーパ―監督)には、子どものころのエリザベスがちょっと出てくるのだけど、そこで描かれたお父さん(ジョージ6世)の生真面目な性格を、女王陛下はよく受け継がれたのだなあと思う。

自分が物心ついた時には、すでに女王陛下は女王陛下だったわけで、それから数十年、王侯だから当然のように思っていたが、常に同時代の人物として人々から意識され続けるのは、とても特異なことだと改めて実感する。例えば、ごく最近の首相であるメージャーやブレアでさえ、今どこでどんな活動をしているかは(少なくとも自分のような素人には)遠い世界の話なのに、なんとチャーチル首相の時代から70年近く第一線にいるということ自体、想像を絶することだ。また、諸外国の王室のような、高齢を理由にした退位を全くお考えでないことがわかったが、その理由も、この方らしいなあ(ついでに言えば、この方がそう言うならそうするしかないだろうなあ)と思わせる。

発見として、日本にいるとなじみのない「コモンウェルス」という紐帯が、イギリスにおいては(当たり前だけど)重要なのですね。たしかケンジントンのどこかに、コモンウェルス博物館みたいなものがあって、一度だけ拝見した記憶が。サッチャーがコモンウェルスを毛嫌いしたというのが、さもありなんというところ。なにしろ、国家と個人はあるけど社会は存在しないと言い放った人間だからして。逆に、ブレアがコモンウェルスに無関心だったというのが意外。

新書って、専門家が一般人向けに書いてくれるという性質上、本来なら何冊もの専門書を読み、記述を突き合わせて理解しなければならないことを、煎じ詰めて書いてくださるので、すごく理解した気になって気持ちがよい。しかし、じゃあ自分もその道の専門家になれるかというと、これは当然、一生かけてもなかなかその域には達しないわけで、この「理解した気になる」のが怖いところ。それでも、この先生の大学院のゼミに入って修論書いてみたいなあなどと思う(大変だけど楽しそう)。テーマは…どんな一次史料が発掘できるか次第だろう。ヴィクトリア女王の日記同様、エリザベス女王の日記も、後世の研究者にとっては超重要な一次史料になるのでしょうね。

 
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中止(延期)相次ぐ [ウォーキング]

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5月16日に予定されていた「ぐんま100」につづき、10月16日に予定されていた「びわ100」も来年に延期とのこと。やむを得ない。が、次の目標が来年の5月って、遠すぎる…

とはいえ、一番残念な思いをされているのは他ならぬ実行委員会のみなさんなのだから、来年を楽しみに静かにトレーニングを続けなければ(って、何もしていないのだけど)。

(5.28追記)来年のことはさておき、いま100キロウォークの大会が開催されたら、参加者はマスクを着けて歩くことを要請されるのだろうか?ペースを上げたときにちょっと苦しそう。
  
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