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第141回深夜句会(2/13) [俳句]

(選句用紙から)

スーパーの前のバス停日脚伸ぶ

地方の、ロードサイド店とかショッピングモールの中にあるスーパーだと、お客の大半は自分の車を運転して来るので、仮に路線バスのバス停があったとしても、目立たない存在と思われるのだけど、都会のスーパーには、そもそも駐車場がなかったり限られたりするので、スーパーの前のバス停には、レジ袋や手提げをかかえたお客さんがバスを待っている風景が普通にみられる。路線も、2つも3つもあったりで。その、バスを待っている人たちの風景が、この時間になってもまだ日が沈まないので見えている。何も書いてないけど、都会らしい風景。


サックスの男禿頭風光る

季題「風光る」で春。公園か河原か、いずれにせよ屋外でサックスを吹いているのだろう。サックスの甘い音が、春の風に乗ってこちらへ流れてくる。ふと奏者を見やると、つるっと禿げている…が、それさえも楽しく感じられる。下五の季題が何でもいいじゃないか、というなかれ。これが「秋の風」だったら、さしたる興趣は感じられないうえ、「禿頭」と「秋」がどことなく俗っぽい感じを醸してしまう。「冬の風」だったら、なにしろ寒いわけだから、何かの修行ですか、みたいなことになって、やっぱり詩情には遠い。なんでもいいようでいて、やはり「風光る」なんだと思う。


(句帳から)

餅花の揺れて吹出口の下
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第140回深夜句会(1/16) [俳句]

深夜句会の会場は、いつも同じカフェを使っているが予約はしていないので、隣のテーブルの会話が聞こえてきたりするのだけど、かなり高い確率で、怪しい自己啓発セミナーとかマルチ商法の勧誘みたいなものが行われていて、聞くともなしに聞きながら、うーんこういう手合いに横から茶々を入れたらどうなるのだろうかと思う。

(清記用紙から)

ぼそぼそと降りてやまざる寒の雨

「ぼそぼそと」には、気勢のあがらない語感があるが、寒の雨が、たたきつけるのでもなく、しとしとでもなく、「ぼそぼそと」降っていると感じた。その感じ方の勝利。

小川にも瀬てふものあり冬枯るる

小川にもの「も」にちょっと説明のきらいがあるけれど、冬涸れの、水の少ない小川にも、淵と瀬がちゃんとある、という発見。冬の小川の、音を立てて流れる瀬は、夏や秋とはおのずから違った色や姿をしていることだろう。

(句帳から)

バスを待ち三寒四温始まれる
「シマダス」の新版拾ひ読みはじむ
ふと会つてみたく恩師に賀状書く

  

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増田俊也『北海タイムス物語』(新潮文庫、2019)【一部ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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「こんな終わり方ってあるのだろうか」と衝撃を受けた「七帝柔道記」を読んでから3年弱、続編を待望していたが、これは続編といっても北大柔道部の話ではなく、お仕事小説である。ただし作者は、この作品にも「先輩」として登場する。もっとも、柔道か新聞紙面の整理かの違いはあっても、とことんやりぬくことがテーマになっている点はまったく同じである。

従って、普通に読めば、お仕事を通じて成長していく主人公が必死で仕事を覚え、独り立ちを果たす618頁以下のシーンがクライマックスなのだろうけど、私が感動するのはむしろ、そこから離れたところで行われる、ベテラン編集者どうしのこのような会話だ。単なるお仕事小説はあまり好きでないのだけど、こういう描写には惹かれる。

(以下引用。pp.523-4)
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「まだほとんど来てません。間に合うでしょうか」
「大丈夫だ。リードは三倍、本文は二倍でグリッド二段で流す」
「わかりました」
「横凸版は天地二十九倍、横百六十六倍、白ゴチベタ」
「了解です」
 二人は数少ない言葉だけで通じ合い、互いのレイアウト用紙も見ないで一気に線を引いていく。そして凸版指定用紙にさらさらと見出しを書いた。(以下略)
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(以上引用終わり)

高度専門職がその全力を傾けて問題解決に挑む様子、もっと雑駁にいえば、なんだかよくわからないけど凄そうにみえるところに感動してしまうのだ。

似たような例で、印象に残っているのが、例えばアーサー・ヘイリーとジョン・キャッスルの共著『0-8滑走路』(清水政二訳、ハヤカワ文庫、1973)のこんな会話。
(以下引用。p.59)
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二番目の男は彼の肩越しに首をのばして、タイプに打たれていく字句を読んだ。ベルで呼ばれた男は空港の管制官で、背が高く痩せていた。彼は一生を大空で過ごしてきた男で、自分の家の裏庭のように、北半球の飛行情況にくわしかった。いや、裏庭で育てる野菜には失敗しても、こと空となったら知らぬことはなかった。彼は通信の半ばですばやく数歩退って、振り向きもせず、部屋の向こう側にいる電話交換手にいきなり命じた。
「航空交通管制局をすぐ呼べ。それからウィニペッグのテレタイプ回線をあけておけ。優先通信だ」
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(以上引用終わり。内容が古めかしいのは、1958年の作品であるため。)

書いているうちに、もう一つ思いだしたのがこんな会話。徳永進『臨床に吹く風』(岩波書店、1990)
から引用する。
(以下引用。pp.219-20)
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「酸素二リットル吸わせて。胸部X線写真の正面と採血。レントゲン技師と検査技師を呼んで。酸素吸う前に血液ガスを。それから、カットダウンを右大腿でするから、その用意して。点滴の本体は五%ブドウ糖500mlで」次々に当直の看護婦さんに指示する。呼吸音を聞くと、両肺に喘鳴がある。血液ガスの採血をしようと両腕をみると、浮腫がすでにありあちこちで針のあとが内出血している。DIC(血管内凝固症候群)をおこしているのではないかと疑い、「プロトロンビン時間(PT)、ヘパプラスチン時間(HPT)、アンチトロンビン-Ⅲ(AT-Ⅲ)、FDPそれにフィブリノーゲンも採血して」と言う。
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(以上引用終わり)

調子に乗って大引用大会になってしまったのだけど、しかし、何だかよくわからない表現に接して、よくわからないけど凄そうにみえることに感動してしまうのは、変といえば変な話で、これは自分に、権威らしきものに弱い面があるからなのかもしれない。くわばら、くわばら。

  
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