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中井久夫集3 「世界における索引と徴候 1987-1991」(みすず書房、2017) [本と雑誌]

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はたと膝をうつ、という言葉があるのだけど、統合失調症の典型的な症状でる妄想について中井久夫氏が書いているこの一節は、なかなかうならせるものがある。
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自然な“虫の知らせ”(予感や余韻)に耳を傾けないからこそとんでもない妄想に頼るのである。妄想が何であれ、妄想者は信じてもほぼ安全であることを疑い、信じる根拠のないものに軽々しくとびつく。容易に信じない懐疑者であると同時に軽信者でもある。彼らを軽信させる大きな動因に権力意志がある。私は俗的な権力意志ぬきの妄想者を知らないくらいである。
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以上引用終わり(「統合失調症の精神療法」p.101)
もしこの指摘が事実だとして、さらに、妄想者が総人口に対してそこそこの比率で存在するとしたら、これによって説明のつく社会現象がありそう。あれとかあれとか。

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第188回深夜句会(1/11) [俳句]

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自分にとっては今年の初句会。不在投句が3人となかなかの盛況。
来年1月が、ちょうど200回目になるのですね。

(選句用紙から)

元朝に弾かれゐたるパスワード

元日の朝なので、さすがに職場ではなく家のパソコンだろう。仕事で使うシステムではなくて、趣味のサイトとかショッピングとかなんでもいいけど、そのサイトに久しぶりに行ってみたら、あんまり久しぶりなのでパスワードが思い出せないとか認証のしくみが変わったとか何かで入れなかった、という句。「元朝」でヒマなので、普段は行かないサイトに行ってみた、というところを「元日」「元旦」といった季題と紐づけて読むのだと思う。

厳かに上座の父の御慶かな

季題「御慶」で新年。これが1950年代とか60年代だったら、こういう風景は当たり前すぎて俳句にならないし、むしろ人によっては反感の対象になったりしたのだろうけど、2024年のいま、この句が詠まれていると、読む方としては、ああ昔はこうだった(らしい)なぁ、という独特の感慨を覚えると思う。ノスタルジアとかいうのでなく、そうだよね(そうだったよね)という共感。

裸木の毛細管のごと天へ

季題「裸木」で冬。当たり前のようで当たり前でない句。枯木の枝を毛細血管に見立てること自体は、おそらく類句があると思うのだけど、それが毛細血管として「天へ」連なっているように見えるということは、この裸木は、枝の細かさが見える程度の微妙な高さがあるということ。そこを楽しむのだと思う。たとえば旧街道沿いの欅並木なんかは、天をつくばかりの高さになっているけれど、枝のある場所も高すぎて、毛細管には感じられない。逆に庭に植えたばかりの木だったら、枝は毛細管のように見えるかもしれないが、「天へ」にはならない。そのあいだのどこかに、枝の細かさも見えて、かつ天に通じるような高さがあることになる。

(句帳から)

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