第159回深夜句会(8/12) [俳句]
ワクチン接種が全然進まない(予約が取れない)横で、史上最悪の数字がどんどん更新されていく事態に。自宅療養って、ものは言いようというか、要するに放置だし、これは一体何の悪夢なのだろう。
(選句用紙から)
かなかなの声に始まる朝かな
季題「かなかな」で秋。薄暮や未明に鳴くひぐらしの声は、他の多くの蝉ときわだった違いがあるので、クマゼミやツクツクホーシの声で始まっていた夏の朝とは、その日の出の時刻も、雰囲気も、全然違ったもの、つまり「秋の朝」になってくる。
湧水に屈めば音の遠くなる
季題「湧水」で夏。山中の湧き水か、都会の公園の湧水か、その湧水の水面に近づこうと体を屈めると、「音」が遠くなったという。その「音」は何の音だろう。湧水自体の音とは考えにくいので、湧水の傍をゆく渓流の音なのか、周囲を走る車の音なのかは定かでないが、季題に向けて近づいていくときに、それ以外のものが遠ざかっていくという対比は、それが実景であれば、それ自体がひとつの興趣でもある。
はりつめし百合のつぼみのほどけそむ
花のつぼみは数々あれど、百合のつぼみは大きく硬く、独特の緊張感があるところを謳い、かつ、それが僅かにほどけはじめている、という周到な観察。
ヴィヴァルディの曲の如くや蝉時雨
たくさんの俳人が、さまざまに蝉時雨を形容してきたところ、ヴィヴァルディとはこれいかに。ヴィヴァルディの協奏曲を聴いていると、32分音符や64分音符による同じ音形の細かい繰り返しが特徴的だが、これが蝉時雨のようだということか。形容の当否はわからないが、そう言われれば確かにそんな気がする。ただ、「曲の」はいかにも余計。
祖母の手の細きに光る花火かな
「細き」が、余計なようでいて一句の要所を占めている。その細い手の先の光芒。
(句帳から)
踏切の際までホーム朝曇
ガード下の店のあかりが見え夜涼
時刻表完全復刻版 1964年10月号(JTBバプリッシング、2019) [本と雑誌]
自分が最初に読んだ「時刻表」は1968年10月号、いわゆる「ヨン・サン・トオ」改正の時刻表で、それより前の時刻表は復刻版でしか知らない。また実景としても、1967年以前のことは覚えていない。だから、この1964年10月号を読んでも、「へーそうなんだ」とは思うけど、懐かしいという気持はまったく湧かない。その点、同時代で1964年を知っている人が読むのとは違った味わい方になる(ちなみに1964年9月号の復刻版も出ている)。
その上で、思いつくままに感想を挙げると、
・長距離の普通列車がたくさんあったのですね。自分もその後、そうした列車に乗って大いに楽しんだのだけど。
・東海道本線の昼の時間帯に、優等列車がたくさん走っていたのですね。東海道新幹線開業と同時に一挙に消滅したわけではなく、時間をかけて減っていったということですね。
・北海道の鉄道の充実ぶりがすごいですね。また、北海道の鉄道の中心は札幌ではなく函館になっているのですね。
・地方私鉄、それも面白そうな地方私鉄がいっぱいあるのですね。
といったところだろうか。こんな時代に周遊券で旅行ができたら、楽しかっただろうな。