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第168回深夜句会(5/19) [俳句]

(選句用紙から)

代田かな売物件の札立ちて

季題「代田」で夏。代掻きが終わり、水をたたえて田植えを待っている田んぼに、どうしたことか「売物件」という野立て看板が立っているというのだ。代田だからして、その水面に「売物件」の文字が映ったりしているのであろうが、それより何より、これから田植えをしようという場所が売りに出されているという奇妙な事実が、かえって俳句的である(これが「刈田」とか休耕地に看板が立っているとしたら、印象がだいぶ違ってくる)。農地は自由に売買できないんじゃないのというツッコミはまた別(いや、市街化区域内の水田なのかもしれないし)。

春時雨はれて夕日の甍かな

こういう句を鑑賞するとき俳人は、「春時雨」が本来の(冬の)時雨とどう違うのかを気にしながら読むのだけど、時雨があがって差し込んできた夕日が、瓦屋根にやわらかく当たっている様子は、いかにも春の風情というか、人によってはつきすぎと感じられるかもしれない。もう少しいうと、時雨という気象現象は、国内の比較的限られた地域でよく起こるのだけど、その限られた地域はまた、寺社がたくさんある地域でもあって、そうしたこと(民家の甍だって構わないのだけど、大きな寺の本堂のような、大きな面積をもった瓦屋根に夕日があたっている様子)も連想させる。

検疫の列に並びて明け易し

2022年5月の句会なので、これは帰国時の句として読むのだろうけど、仮にそれを抜きにしたとしても、これは俳句たりうると思った。すなわち、夜行便で長時間まどろんだ末、夜明けに到着したどこかの国で、入国のために最初に通過する関門(検疫)に長い列ができているという状況だ。こんにちなお検疫という関所が意味を持っている国は、そういう必要がある国なわけで、たとえばイエローカードがないと入れない国で、1人ずつ提示してチェックを受けるために長い列に並んでいる、といった状況が想定される。なかなかに気が重い風景であるが、他方で、その国(夏を迎えたその国)で何が始まるのだろう、といった心の動きも感じられる。


(句帳から)

鎮守の森代田に浮かぶやうにあり
金雀枝をポットに植ゑて美容室

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第167回深夜句会(4/21) [俳句]

句会場にしていた某喫茶店の営業時間がコロナ禍で20時までに短縮されていたところ、今月から21時までに。なので、20時集合で1時間限定ながら、長テーブルで楽しく句会。

(選句用紙から)

ストックの足腰丈夫さうなるよ

南房総でストックが咲いたニュースは、春先の定番ともいえるのだけど、まだ風が強い早春の冷気に抗して揺れているストックは、確かに茎がぶっとくて、「足腰が丈夫」そうだ。なので、花の姿かたちそのものでなく、その踏ん張っているさまを「足腰丈夫さう」と叙したところに、眼前の事実でありながら詩情があるといえそう。さらに言うと、その花の名前が「ストック」であるというところが、名前の由来は知らないのが、スキーやウォーキングに使う「ストック」を連想させ、これまた「足腰丈夫さうなるよ」に回収されるところが、作者として意図したのであればたいへん周到に感じられる。

中庭の人工芝に桜散る

「中庭」に「人工芝」が敷かれている場所って、どんな場所なのだろうか。いまでは個人の住宅にも中庭があったりするが、それだと人工芝に桜が散ることへの興趣は感じにくそうだ。それよりは、学校とか官庁とか、複数の建物が並んだある程度規模の大きな施設を想像するのだろう。桜が散りかかっているわけだから出来たての施設でなく、それなりの年数を経たところなのだろうが、それ以上の鑑賞がちょっと難しい。

やはらかに風吹く日なり桜餅

季題「桜餅」で春。屋外または屋外につらなる室内で桜餅をいただいているのだろう。吹いている風が、もう冬の風でなく、春のやわらかい風だ、という一句。類想ありそうだが、「風吹いてをり」でなく「風吹く日なり」としたことで、自分と、自分が過ごしている時間を、斜め後ろから見ているような、やや引いた視点を提供しているところが一句の手柄か。


(句帳から)

つないだ手を放し入学式の列
さつきまで降つてゐた雨鳥帰る
植木屋の軽トラが来て麗かに

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第166回深夜句会(3/17) [俳句]

あと数日で防止措置解除の見込みだが…

(選句用紙から)

上水に野梅たどれば雨となり

 季題「梅」で春。水利のために川や湖から水を引いてくるのが上水なので、ここはもともと水の乏しい畑作地帯で、江戸時代に水を引くために上水が引かれた場所なのだろう。
 で、その上水に沿って点々と梅が植えられていて、それが咲いているという。「たどれば」が心の弾みをよく表しているというか、単なる観梅というより、晩冬の季題である「探梅」にちょっと通じるものがあるかもしれない。春となった今では、雨もそれほど困ったものではないのだろう。

卒園や一人ひとりの植木鉢

 季題「卒園(卒業)」で春。幼稚園か保育園か、そこから帰るこどもたちが、一人ずつ、何かが植わった植木鉢を持っている。去年の秋か冬に、春に向けて植えられた球根であろうか。その花が咲く頃となって、卒園の時期がやってきた。卒園式当日というより、明日か明後日の卒園式に備えて、道具や荷物やいろいろなものを持って帰る日、と感じた。

蕗の薹の香や刻んでは炒めては

 季題「蕗の薹」で春。「刻んでは」「炒めては」のたたみかけ方が周到。

(句帳から)

紅梅と門と塀とが残りたる

 

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第165回深夜句会(2/17) [俳句]

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会場に予定していた喫茶店が急に20時閉店に。急遽スタバに移って(奇異の目で見られながら)句会を続行。

(選句用紙から)

魞挿しの吃水深く漕ぎ出せり

季題「魞挿す」で春。湖に竹を並べて、魚をとるためのしかけをつくるのだが、その船がエンジンのない小さな(手漕ぎの)船で、竹をたくさん積んでいるので船縁が水面ぎりぎりまで沈んでいる(波のない湖なので、それでも平気なのだろう)。その船が、早春の空気の中を、静かに漕ぎ出していく。

いぬふぐりけふは三つや校舎裏

「けふは」なので、作者は毎朝のように、この校舎裏に何かの用事で、あるいはいぬふぐりの様子を見にやってくるのだろう(学校が職場であるか、学生であるかということになる)。
で、あの小さな犬ふぐりの青い花がわずか三つ開いていることに気づいたという。いちめんのいぬふぐりではなく、わずか三つ開いたことに気づくところが、作者の春を待つ気持ちを表しているのだろう。

春日影五百羅漢の夫々に

 夏の日影や秋日影ではダメなのかと問われそうだし、秋日影は「あり」気もするのだけど、ともかく眼前の実景であって、五百羅漢の「それぞれ」が影をのばしていること、その影の風情がやわらかく春らしくあること、を詠み手が感じていることがよくわかる。

(句帳から)

ある晴れた日に流氷が遠くから
雪原と森が斜めになり離陸
→雪原が森が斜めになり離陸
スパークの音や光や春浅き

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第164回深夜句会(1/13) [俳句]

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このペースで感染拡大すると、来月はまた(対面の句会が)できないかも、と言い合いながら一時間。

(選句用紙から)

福詣ケバブ屋台の匂ひして

季題「福詣」で新年。七福神などに詣でることで、近年「○○七福神」などと称して新興住宅地のプロモーション活動に利用されてもいるが、常識的な鑑賞としてはお正月で、休みなので、少々時間のかかる七福神参りに出かけてきたところ、この七福神は、地元の人しか知らないようなマイナーな(あるいは今出来の)七福神ではなく、それなりに人を集める古参?の七福神とあって、ずいぶんと人だかりがしている、その道のどこかに、どうもケバブ屋台があるようで、羊肉とスパイスの独特のにおいが漂ってくる。

この句の俳諧味というか面白さは、眼前の実景でありながら、一応宗教行為であるはずの七福神参りの人出をあてこんで、そんな信仰とは無縁なはずの屋台主がちゃっかり出店しているところ。察するに、周囲の商店もきょうは正月休みなのであろう。そうした中でドネルケバブの屋台が繁盛(しているとは書かれていないが)する様子が面白い。

踏切の音の此処まで青木の実

季題「青木の実」で冬。庭先か玄関先かに赤い青木の実がついている。ずいぶん遠くの踏切の音が、きょうは北風に乗ってここまで届いている。踏切の音はいつも同じように鳴っているのだろうけど、雨の日と空気の乾いた日では音そのものが違うように思える。真冬の、空気が乾き切っている中で赤く静かに実をつけている青木が、音を介して描かれている。

(句帳から)

雪だるまの目鼻を覆ひ雪降りつむ
風船が横切つてゆく初御空
エコバッグから大根のはみだせる

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第163回深夜句会(12/9) [俳句]

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対面の句会は(自分は)これで年内最後。むかしながらの喫茶店のテーブルにひしめきあって短冊を書くのだけど、これもまた、第6波とやらで中断することになるのだろうか。

(選句用紙から)

聖夜飾る枯木を金に銀に塗り

季題「聖夜」で冬。とっさに連想したのは、デパートのショーウィンドウなどに、木の枝が白とか金銀に塗られている飾り付け。商品を売るための展示なので、木の枝自体はその手段にすぎないのだけど、そのために「枯木」がさまざまな色で塗られてしまうところに、いくぶん反感、とまではいかないが、軽い皮肉のようなものが感じられるところが、この句の味わいどころではないかと。

松の木も聖樹となりて住宅地

季題「聖樹」で冬。今出来の住宅地などで、隣近所が競うように庭に電飾を施すことがあると聞くが、そういう地域で、なりゆき上仕方なく、庭の松の木をクリスマスツリーに仕立てることになってしまったということか。「も」が余計だが、松の木をシンボルツリーにしている家、という時点で、それなりに年数の経っている家、ひょっとしたらそこが住宅地になる以前から住んでいる一家であることが示されている。

覆ひかむさりて其の儘蔦枯るる

季題「枯蔦」で冬。秋までに伸び放題伸びて家やビルに覆いかぶさった蔦が、そのままの形で枯れている。もっとも、春になればまたそこから葉が出てきて、いっそうびっしりと覆い尽くすことになるのだけど。「そのまま」に味わいがある。

(句帳から)

クリスマスリース掲げて集会所
駅前に駅前旅館寒灯
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第162回深夜句会(11/11) [俳句]

久しぶりのリアル句会。いつ以来だったか思い出せないが、たぶん去年の春先ぐらいだろうから、およそ1年半が経っている。久しぶりすぎて、句会のお作法(進め方)を忘れてしまっている。

(選句用紙から)

木の蔭を出て鶺鴒でありにけり

季題「鶺鴒」で秋。樹木の向こう側で動いていたときにはよくわからなかったのが、出てきてみれば鶺鴒だった。小さな鳥だからこう詠めるのであって、鴉や鷺ではこうならない。

雨霽れて土うつくしき冬菜畑

季題「冬菜」。野菜畑は一年中あるのだけど、雨の後の土の黒さやそのにおいが「うつくしき」と感じられるのは、夏以外の季節だろう。なかでも、地表が草で覆われていない冬がいちばん合致するように思う。

黄落のはじまる今朝もよく晴れて

季題「黄落」初冬のよく晴れて澄んだ空気のなかで、黄落がどんどん進んでいく。なにかの例え話のように感じてしまうのは、読み手が老人だからですかそうですか。

(句帳から)

冬雲やコンクリートの大鳥居
北風をさえぎるもののなき地形
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第161回深夜句会(10/14) [俳句]

年を追うごとに秋が短くなっているような…

(選句用紙から)

括られて秋明菊の咲き乱る
 季題「秋明菊」で秋。品種が多く、色も形もさまざまなのだが、ここではその色や形をいうかわりに、「括られて」が秀逸。日陰気味の庭先かどこかに、適当に括られるようにしてたくさんの葉と花を咲かせている。人の暮らしのすぐ近くにある花であることを言い得ている。

里山と棚田と霧のなでゆける
 季題「霧」で秋。「なでゆける」なので、里山を撫でるようにして下りてきた霧が、そのまま、里山の下に連なっている棚田を撫でるようにして平地に下りてきている。地表近くに触れるようにして高所から下りてくる霧の様子。

天高し台地はすべてキャベツ畑
 季題「天高し」で秋。晴れ渡った空が高く感じられるところ、その空の下、この台地も見渡すかぎりキャベツ畑になっている。このような状況であまり使われない「すべて」が作者の感興をよくあらわしている。

干さるるまま固き雑巾そぞろ寒
 季題「そぞろ寒」で秋。干されたまま固く干涸びてしまった雑巾は、雨でないかぎりどの季節でも見かけるものだけど、その雑巾が寒々しさを感じさせるところが、いかにも晩秋の風情なのだろう。

雨粒の音椎の実の落つる音
 リズムで読ませる一句。「木の実落つ」は多くの場合、静まりかえっている中を落ちてくるのだけど、雨粒が音を立てているような状況でもその音が聞こえた、という一句。

(句帳から)

秋晴や図書館の入口にカフェ
赤い羽根一瞬見えて運転士

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第160回深夜句会(9/9) [俳句]

(選句用紙から)

擁壁の上に学校葛の花

 擁壁の上に学校がある。その敷地のどこかから広がってきた葛が、いまでは擁壁全体を我が物顔に占拠している。上にあるのが私邸であれば、あるいは世間を慮って葛を取り除いてくれるのかもしれがいが、この学校にはそんなつもりはないらしい。しかしそのおかげで、葛の花を楽しむことができる。

秋晴れの地球を測る授業かな

 地球を測る授業ってどんなものだったか、すっかり忘れてしまったか、初めから覚えてもいなかったのか、全然わからないのだが、「秋晴れの地球を測る」がすばらしい。窓の外は秋晴れ、その秋晴れの、自分たちが乗っかっている球体のなにかを測ろうという試みが、「秋晴れ」とみごとに響きあっている。

秋の雲カーテンウォール流れけり

 いまでは減ってきたけれども、外壁がいちめんにガラスで覆われたビル。そこに、流れてゆく秋の雲が映っている。むろん夏の雲だって春の雲だってカーテンウォールを流れていくのだけど、同時に映っている秋の空と、見上げている側の爽やかさが違うぶんだけ、詠んでいるときの気分が強くなっている。

スプーンに顔をみてゐる秋思かな

 こういう秋思もあるのですね。「手鏡に」だったらシリアスで俳句にならないけれにど、スプーンなので、食事の途中でひょいと自分の顔を見たということなのだろう。それも、 スプーンに映る顔であるからして、もとより正確な映像ではないわけで、そこから導かれる秋思もいささかの俳諧味があって楽しい。

(句帳から)

仰向けの蝉の骸に雨そそぐ
秋晴や村社の先に見ゆる海

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第159回深夜句会(8/12) [俳句]

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ワクチン接種が全然進まない(予約が取れない)横で、史上最悪の数字がどんどん更新されていく事態に。自宅療養って、ものは言いようというか、要するに放置だし、これは一体何の悪夢なのだろう。

(選句用紙から)

かなかなの声に始まる朝かな

 季題「かなかな」で秋。薄暮や未明に鳴くひぐらしの声は、他の多くの蝉ときわだった違いがあるので、クマゼミやツクツクホーシの声で始まっていた夏の朝とは、その日の出の時刻も、雰囲気も、全然違ったもの、つまり「秋の朝」になってくる。

湧水に屈めば音の遠くなる

 季題「湧水」で夏。山中の湧き水か、都会の公園の湧水か、その湧水の水面に近づこうと体を屈めると、「音」が遠くなったという。その「音」は何の音だろう。湧水自体の音とは考えにくいので、湧水の傍をゆく渓流の音なのか、周囲を走る車の音なのかは定かでないが、季題に向けて近づいていくときに、それ以外のものが遠ざかっていくという対比は、それが実景であれば、それ自体がひとつの興趣でもある。

はりつめし百合のつぼみのほどけそむ

 花のつぼみは数々あれど、百合のつぼみは大きく硬く、独特の緊張感があるところを謳い、かつ、それが僅かにほどけはじめている、という周到な観察。

ヴィヴァルディの曲の如くや蝉時雨

 たくさんの俳人が、さまざまに蝉時雨を形容してきたところ、ヴィヴァルディとはこれいかに。ヴィヴァルディの協奏曲を聴いていると、32分音符や64分音符による同じ音形の細かい繰り返しが特徴的だが、これが蝉時雨のようだということか。形容の当否はわからないが、そう言われれば確かにそんな気がする。ただ、「曲の」はいかにも余計。

祖母の手の細きに光る花火かな

 「細き」が、余計なようでいて一句の要所を占めている。その細い手の先の光芒。

(句帳から)

踏切の際までホーム朝曇
ガード下の店のあかりが見え夜涼

 
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第158回深夜句会(7/8) [俳句]

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(選句用紙から)

曲がるだけ曲がりてみゝず干からびぬ

 季題「蚯蚓」で夏。雨のたびに出てきては、もれなくアスファルトの上で干からびているように見えるみみずの、その干からびているさまが「曲がるだけ曲がって」いるようだという一句。どのような姿で干からびても「干からびている」事実に変わりはないのだけど、これ以上曲がりようがないぐらい曲がっている、と言われると、その苦悶のさまをあらわしているようで息苦しくなる。

山頂は三角点と夏の空

 どのような山なのか書かれていないが、低い山だと周囲に木が生い茂ったり隣の山が間近に見えたりして「三角点と夏の空」とはなりにくいので、ここは、ようやくたどりついた高峰の頂きで、むろん森林限界をとうに超えているので、岩に埋め込まれた標石以外には、周囲にも頭上にも夏の空ばかりが見える、といった風景が想像される。

川遊たうたうお尻ついてしまひ

 「たうたう」なので、作者はずっと、この子が遊んでいる様子を見ていたのだろう。しぶきを飛ばしたりしてずいぶん濡れてしまった上に、とうとう尻までついてしまった。まあしかし、これは事故というよりお約束ともいえる展開で、遊び終えたら着替えて帰るのだけど、予期していたとおりに全身ずぶ濡れになってしまったね、という一句。

形代を納むる箱の小さきこと

 季題「形代」で夏。人の形に切った紙にけがれを移して流すのだけど、その紙を納めた箱が、思っていたよりもずっと小さかった。やろうとする大事に比べて、ずいぶんと小さい箱だなあ、こんな小さな箱で大丈夫なのだろうか、という素朴な疑問。


(句帳から)

とほくから呼ぶ声のする夏野かな
駒草に吹き下ろす風火山から
誰もをらぬ部屋に扇風機のまはる

 
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第157回深夜句会(6/10) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のまた通りたる夜釣かな

 季題「夜釣」で夏。ここで「また」は何だろう。一読して、夜釣の邪魔になる自転車がまた通りすぎた、という句かとも思ったが、少し考えてみると、詠み手はこの夜釣りに飽きてしまっていて、もはや時間の経過もよくわからなくなっているところへ、ふとわれに返るきっかけを与えるかのように自転車が通り過ぎた、という鑑賞のほうがおさまりがよいように思った。


やまぎはの代田は山を映さずも

 季題「代田」で夏。平地のまんなかの代田には空が、山際の代田には山が映るものだとばかり思っていた(私もそう思っていた)が、そうではなかったという驚き。「映さざる」でなく「映さずも」としたのは強調する意図か。とかく「も」は難しい。


低く高く低く翔びをり夏燕

 つばめの飛びかたを描いた句は多いし、もしかすると先例があるのかもしれないが、その速さや身のこなし?を描こうとすると、たしかにこんな表現がぴったり当てはまる。いやそれなら、ひばりだって高く飛んだり低く飛んだりするではないかと言われそうだが、つばめの場合はこれらがほぼ一瞬のうちに行われるということで、「低く高く低く」のたたみかけが効果的。


暮れ方の光をのせて山法師

 季題「山法師」で初夏。「光をのせて」がたいへん巧み。山法師の白い花(あれは花ではないのだそうだが)は枝先にあるからよく目立つのだけど、夏の日中の光は上の方からまっすぐに差してくるので、「光をのせ」た感じにはならない。それが、夏の日もようやく傾き、ほぼ真横からさしてくる時間になってようやく、山法師の白がなかば浮き上がるような光の当たり方になる。

(句帳から)

バス停に並ぶ夏服遠くから
夏草や車両通行止の先


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第156回深夜句会(5/6) [俳句]

(選句用紙から)

行春やひとり抜けたる社員寮

 季題「行春」で晩春。どのような社員寮なのか定かではないが、「ひとり」とあるので独身寮だろうか。古典的な独身寮なら、寮母さんがいて食事も時間が決まっていたりするので、共同生活の趣が強くなるのだけど、転勤なのか退職なのかそれとも独身寮の年齢制限なのか、そこから「ひとり」抜けるとなって、その抜けた人の新たな季節と新たな生活に、残された者(たち)が思いをはせている。

かるの子のくいくいすすむ水面かな

 季題「軽鳧(かる)の子」で夏。「くいくい」の音の響きが心地よい。

しやぼん玉地面を這いて浮き上がる

 季題「石鹸玉」で春。地面に向かって降りていったシャボン玉だが、そのうちのあるものは、地面に接することなくそのまま低空飛行をつづけ、さらに浮き上がって遠ざかっていく。そんなふうに風が吹いているからなのだろうけど、そう言われれば確かにそういうことがあって、その風も、真冬の風や秋の風と違った、春の風なのだろう。

連休の谷間の初夏の丸の内

 連休の谷間であって、かつ初夏であるという。一帯の緑も色が濃くなってきて、これまでとはだいぶ趣が変わってくる。

根に岩を抱きて夏木立ちにけり

 「岩をかかえこむように生えている木」自体は類句がありそうだけど、この句の眼目は、「一年じゅう岩をかかえこむように生えているその木が、夏になったいま、豊かに繁って風に揺れている」ことが、同じ木の真冬の姿、すなわち、岩と一体化したかのように静止している姿(それはそれで、また別の詩情を感じさせる)と正反対だから。

(句帳から)



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第155回深夜句会(4/8) [俳句]

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(選句用紙から)

自習室の橙色の春灯
 季題「春灯」。自習室があるのは予備校のビルの一角なのか、学校なのか、そこに青白い蛍光灯ではなく、電球色のあかりが灯っている。むろん一年中電灯はついているのだけど、この季節になると、柔らかく暖かみのあるあかりの色に、真冬には感じられなかった興趣が感じられるようになってきた。

小田急の鉄橋遠く春の水
 小田急の「鉄橋の下」なら目の前に春の水があるのだけれども、「鉄橋遠く」なので、春の水も、小田急の鉄橋も遠くにあって、さらに(小田急だからして)そのむこうには丹沢や富士山なども見えているのだろう。その山々の姿も、冬から春のようになってきている。

花屑や暗渠はどこまでもたひら
 季題「花屑」。暗渠をただよう花屑は見えないはずだが、部分的な開渠があって見えているのか、それとも見えていないものを詠んでいるのか。「どこまでもたひら」で、暗渠の上は道路や遊歩道になっていることが想像され、実際にはわずかな傾斜に沿ってゆっくり流れているのだとしても、詠み手の脳裏には、花屑が暗渠の同じ場所にずっと漂っているように思われ、それがある種の季節感と詩情をもたらしている。

引継を終へて仰げる桜かな
 仰ぐというからには、オフィスの窓から見上げる角度に咲いているのだろう。きのうきょう植えられた桜ではなく、ことによると新入社員だった時代からそこにあるのかもしれない。あとはよろしく、と桜にも挨拶をして立ち去りたい気分。

(句帳から)


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第154回深夜句会(3/11) [俳句]

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(選句用紙から)

つくし生ふ池上線の土手低し

固有名詞を持ってくると、細かく説明しなくても読み手に大量の情報を伝えることができる。そこが
逆に怖いところでもあるのだけど、この句では池上線の「土手」が詠まれている。電車の「土手」自体 がややクラシックなものになりつつある中で、低めに築かれた土手は、郊外電車が盛んにつくられた時 代と、それをずっと守り続けてきた会社や沿線の人々を連想させる。季節になるとそこにつくしが生え ることを知っている地元の人は、勝手に土手に入り込んで摘んでいるのかもしれない。

軽トラの荷台に零れ藪椿

この藪椿はどこに咲いているのだろう。果樹園の隅か、生産緑地か、農家の庭先か。「軽トラ」とい
う素材自体が、それほど大規模でない農家を連想させ、荷台に何が載っているのか、となるわけだが、 ここでは資材や収穫物ではなく、カラの荷台に藪椿の花が落ちている。白い車体に赤い藪椿の花。

徘徊の祖母の健脚春の闇

「春の宵」だったら、ああ見つかってよかった。それにしてもおばあちゃんは健脚だね、という苦笑
いが想像されるが、「春の闇」となると事態はにわかに深刻いや不穏になり、まだ見つかっていないか、現に暗闇の中を歩いているところに遭遇したように感じられる。そうなると、「健脚」という強い言葉が独自の物語となって立ち上がり、読み手にいろいろなことを考えさせる。

何となくコアラに似た子ねんねこに

季題「ねんねこ」で冬。歳時記が編まれたころのような「ねんねこ」は当節あまり見かけなくて、体の前で抱える形のものが連想される。あれは多くの場合、親と向かい合うように、つまり進行方向にこどもの背中が向くように抱えるのだけど、進行方向にこどもの顔が向くように抱えるタイプもあって、これは直截にカンガルーとかコアラを連想させる。その子が目を閉じて眠っている様子が、さらにコアラを思わせる、という句。

卒業す僕らを乗せて⻄武線

「私」でも「おのれ」でも「僕」でもなく「僕ら」。
僕らを乗せて走っていくこの電車の先には、何が待っているのだろう。

(句帳から)

お隣もそのお隣も花ミモザ
苗札のうち何枚か子供の字
バラックのやうな横丁蕨餅
島までは船で三分風光る

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第153回深夜句会(2/11) [俳句]

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対面の句会じゃないので、祝日でもかまわず開催できるのは不幸中の幸い。

(選句用紙から)

しやぼん玉ういてしづんで無回転
 季題「石鹸玉」で春。吹き出されたしゃぼん玉が浮いたり沈んだりする様子は多くの句に詠まれているけれど、それが無回転(のように見える)、というところに詠み手の発見がある。また、風に吹かれて次々に飛び去っていくのではなく、ほとんど風がなくてずっとその辺を漂っているのだろう。

日当たりて河岸段丘木の芽吹く
 季題「木の芽」「木の芽吹く」で春。河岸段丘だから、あるいは扇状地だから、というと理屈になってしまうが、ここではそうでなく、たまたま郊外を歩いていた詠み手の目にとまったということだろう。その木の芽のずっと遠くまで、川をはさんだ谷間の春の風景が広がっている。

寒日和居間の時計の針の音
 寒の内のある日、幸いにもよい天気に恵まれた昼の時間に居間でじっとしていると、掛時計の針の音までが聞こえるほどの静かさが感じられる。上五が「麗かや」とか「秋日和」でもよいのではないか、つまり季題が動くのではないか、という意見もあろうが、詠み手の意図は、天気はよいがひどく寒い、という点にあるのだろう。そうすると時計の音も、のどかな午後というよりも、ある種の緊張感を帯びて、冷たい空気の中で刻まれていると受け止めるべきなのだろう。

アパートの裏にマンション枇杷の花
 季題「枇杷の花」で冬。アパートの裏「の」ではなく、アパートの裏「に」であることに惹かれる。この枇杷の木はずっと以前からアパートの敷地にあるのだけど、最近になって、裏の敷地に大きな(少なくとも、アパートよりは大きな)マンションが建ったのだろう。今出来のそのマンションと、すこし時間が経過したアパート+ややクラシックな枇杷の木、という対比が、枇杷の花のいかにも地味な感じを際立たせている。

鉄道の跡の緑道黄水仙
 季題「黄水仙」で春。廃線跡が遊歩道になっているのはよく見かけるが、適度にカーブがあって、また道幅もほどよく狭く、楽しい道になることが多い。黄水仙は花壇に植えられているのか、それとも両側の民家の庭に咲いているのだろうか。

(句帳から)

葉牡丹の窮屈さうな分離帯



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第152回深夜句会(1/14) [俳句]

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(選句用紙から)

⽩⿃のうなじに⼟に⾊わづか

⽩⿃の⽩さを詠んだ句はいくらでもあるだろうけど、細く⻑いその頸に、わずかに⼟の⾊が混じっているという観察。いまいる場所の泥⽔に由来するのか、それ以外の何かに由来するのかはわからないが、美しい⽩⿃も、ぬいぐるみのような作り物でなく、野⽣の動物であるという当たり前のことを思い出させてくれる。

室外機に吹かれつ放し冬薔薇

植物園やビルの庭園ではなく、⼀軒家の庭先とか⼩さな事務所のわずかな緑地に薔薇が植えられているのだろう。薔薇が先なのか室外機が先なのかはともかく、せっかく植えた薔薇が咲いたのに、⼀⽇中エアコンの室外機から吐き出される⾵に吹かれている気の毒な⾵景。しかし、そのわずかな場所であっても、なんとか花を咲かせようという植えた⼈の気持ちも感じられ、それも今時の冬薔薇のひとつの姿なのだろうと感じられる。

⽼⼈ホームぽつんと建ちし冬⽥かな

「建ちし」なのか「ありし」なのか、前者ならこのところ新たに建てられた、というニュアンスだし、後者なら、いつからか知らないがそこにある、となる。また、「ぽつんと」には検討の余地がありそう。
にもかかわらずこの句に惹かれるのは、⽼⼈ホームで暮らしたり働いたりしている⼈たちからも、同じ冬⽥が⾒えているだろうからで、その⼈たちはこの冬⽥をどのように⾒ていのだろうか、という想像を喚起するからだ。ある⼈にとっては、⾃分がずっと農業を営んできた場所だろうし、別のある⼈にとっては、住みなれた場所を遠く離れた、どこであるかももうよく判らないところなのかもしれない。冬⽥のなかに⽼⼈ホームだけが「ぽつんと」あることが、そこで期限を定めることなく暮らしている⼈々の視点を浮かび上がらせているように思う。

とまりたるレールに写り寒鴉

カラスが線路に下りて、レールの上にとまっている。通過する列⾞でなにかを砕いて⾷べたりしているのだろうか。そのカラスが、ぴかぴかしたレールに写っているという。⼀年中⽌まっているかもしれないが、厳寒のいま、冷え切って青空を映して青く光っているレールにとまっているカラスも、また冷たく感じられる。


(句帳から)

枯蔦やここまで伸びて力尽き
訪はん暖炉しつらへしと聞けば
大年の吉野家昼の酒すこし


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第151回深夜句会(12/10) [俳句]

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(スタバで句会を開いているわけではありません)

対面の句会を再開どころか、都道府県の医療機関の状況を心配しなければならない事態になってきた。しばらくの間、せめて急病と交通事故に遭わないようにしないと…ってそんな都合よくいくはずもないのだけど。

(選句用紙から)

着ぶくれてゐる日曜日の先生

季題「着ぶくれ」で冬。日曜日の街角でばったり出会った先生は、学校で見慣れているスーツ姿(ジ
ャージ姿か?)とはうって変わって、セーターの上からもこもこのダウンジャケットを羽織って、ずい ぶんと嵩が増して見えた。直接そのように書かれていなくても、詠み手は「日曜日の先生」にどことな く親愛の情を感じていることが伝わってきて、そこがいい。

山茶花や公園に住み憩ふ人

季題「山茶花」で冬。公園を住処としている人やひとときくつろぐ人、そのさまざまな人たちの間
に、山茶花が咲いては落ち咲いては落ちしている。ずっと同じ形のままに咲き続ける花でなく、どこと なくルーズに、とめどなく咲いたり散ったりする山茶花の様子が、そこにいる人たちの動きになんとな く通じるように感じられて効果をあげている。

小春日や大樹伐られし鋸のあと

季題「小春」で冬。森の奥でもいいし、公園や街路樹など人通りの多いところでもいい。そこに植え
られていた巨木が、何かの理由で伐られたのだけど、なにしろ大きな木なので、途中でチェーンソーの 角度が変わったりして、断面が平滑になっていない。その「鋸のあと」が、何百年もそこにあった大樹 の跡としていかにも痛々しく、またそれが、近づいてくる真冬の寒さとあいまって、いっそう切なく感 じられる。

自動車は小さし冬の雲映り

よく晴れた日だと光が強くてよく見えないのだけど、曇りがちの日などは、自動車のフロントガラスやリアガラスに空や雲の様子が映っているのがよく見える。そのときに、空や雲が「小さく」映ってい ると感じられそうなものだけど、作者は「映っている雲や空に比べて、映しだしているこの車は小さい なあ」と感じたという。そこに静かなあじわいがある。

(句帳から)

川底のかたちのままに水涸れる
暮早し同じかたちの家の列
北風に境内の幡(はた)一斉に
枯萩のままに生産緑地かな
森の奥に小さな冬野ありにけり
冬籠芋づる式に辞書ひいて
外套の千鳥格子のやはらかに



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第150回深夜句会(11/10) [俳句]

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深夜まで利用できる静かで広い会場が見つからないうちに第3波などと言われはじめ、150回目の深夜句会も通信に。残念。

(選句用紙から)

紫苑咲く処と知って訪へる
 季題「紫苑」で秋。お屋敷か公園か、そこに毎年紫苑が咲くことを知っていて、それを念頭において(あるいはさらに、それをめざして)訪ねていった。バラのようなめだたしい花ではなく、紫苑であるところが一句の眼目。

冬の田に大きな空がありにけり
 秋の田や夏の田にも大きな空があるのでは、と思われそうだが、秋の田や夏の田の主役は、そこに植わっている稲なので、なにもなくなった冬の田の上に、大きな空がかかっていることは、納得されるところである。また、大きな空「が」と、わざわざ口語的な言い方をすることで、詠み手の感興というか発見というか、驚き感心する気持がよく伝わってくる。

助産師の声よくとほる今朝の冬
 季題「今朝の冬」で冬。立冬の傍題。病院の産婦人科や助産師外来のようなところ、あるいは助産院でもいい。妊産婦や子育て中の親にとって助産師は身近な相談相手であって、しばしばそこで助言を求めることになる。その助産師の声がよく通るというのだ。むろん一年中よく通る声なのだろうが、冬の冷たく澄んだ空気の中で、きびきびとアドバイスをくれるその助産師がいっそう力強く、また心強く感じられる。

暖房の一部屋分のにほひかな
 季題「暖房」で冬。大きなビルの全館暖房も、小屋のストーブも、同じ「暖房」なのだけど、わざわざ「一部屋分」と言っているので、少しクラシックな石油ストーブを、どこかの部屋でたいていたのだろうか。そのにおいは、そこに住んでいる人にはあまり自覚されず、たまたま訪ねてきたり帰宅したりしたときに感じられるものなのだけど、その部屋にかぎって、その石油くささが感じられた、というようなことが、それ以外の部分は冷たいままであることから、家屋の感じや暮らしぶりを感じさせる。

長葱の束を掴めば軋む音
 季題「葱」で冬。そう言われれば、たしかにそういう音がする。

(句帳から)

三両の特急電車冬の海
冬の暮踏切ドップラー効果
冬の月雲を超えまた雲を超え
 
 

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第149回深夜句会(10/8) [俳句]

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(選句用紙から)

半分の半分に割る青蜜柑
 季題「青蜜柑」で秋。「半分の半分」のリズム感が心地よい。また、まず半分にして、それをさらに半分にしていく様子、手の動きが見える。

牧場に残る学び舎蔦紅葉
 季題「蔦紅葉」で秋。俳句以前に、こういう場所があることに惹かれた。牧場の中に学校があるというからには、ずいぶん大きな牧場で、そこでたくさんの若者が働きながら学び、共同生活を営んでいる(いた)と想像される。あるいは、そこで働いている人たちの子弟が通っていた小学校なのかもしれない。インドの大きな茶園のようだ。どうした事情か今は使われていないその校舎に蔦がからみ、紅葉している様子は、その校舎を今も大事に守っている人たちの気持ちや、もうすぐやってくる冬の厳しさを想像させたりもする。

眉かくす帽子の上の秋の雲
 いろいろな帽子のなかには、頭頂部にちょこんと載っているだけのような帽子もあるのだけど、これは目深にかぶると眉が隠れるような帽子、たとえばビーニーのようなニットキャップなのだろう。といっても、冬帽子というほど厚手のものではない。
 で、その眉と帽子は相接しているというか隣り合っているというか、まあ至近距離にあるので、「眉かくす帽子の上の」と来ると、その帽子のすぐ上には何があるのだろう、虫がとまっているのか、それとも傘でもさしているのだろうか、と思わせておいて「秋の雲」と落とす。このストンとくる感じ、軽妙洒脱な感じが俳諧味なのだろうと思う。

倒木に虻の翅音や秋日影
 森のなかの倒木。みっしりと植林された森だと、全体が「秋日影」になってしまうが、ここは雑木林のような場所で、日があたっている場所と日陰とが入り混じっているのだろう。で、作者は倒木の近くにいて、あるいは倒木に腰掛けて、虻のわずかな翅音を聴いている。虻の姿は、日向日陰を出入りするたびに見えたり見えなくなったりするのだけど、翅音はずっと続いている。もしこれが日影(夏の日影)だったら、この句はあまり面白くない。秋の日影であることが、やがてやってくる冬に向けて、森のなかの命がそれぞれに備えようとしていることを連想させ、それ一句の通奏低音のような効果をあげている。

(句帳から)

ラジオつけたまま木犀の家
薄紅葉かつてケーブルカーありき

 
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