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第125回深夜句会(10/25) [俳句]

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急に寒くなる。高層ビルの上に出ている月がきりっとしていて、既に冬の月の色になっている。

(選句用紙から)

紫の絵の具めきたる式部の実

季題「紫式部の実」で秋。実むらさきとも。
紫式部の実の色は、その名のとおり紫色なのだけど、その紫色が、どういえばいいのか、およそ天然の産物とは思われないような色をしている(従って、コーティングしたお菓子のように見える)ので、「絵の具めきたる」は共感できるところ。おそらく類想・類句がいろいろあるのだろうが、不勉強で存じあげないので、迷わずとらせていただく。

湖北より湖南に流れ鰯雲

どこの湖かということは書かれていないが、日本で湖北とか湖南とかいえるぐらい大きな湖といったら、まず琵琶湖でしょう。実際に「湖北地方」という言い方をするし。で、秋になってその大きな湖の上を、北から南へ鰯雲が渡っていくのですね。空の大きさと、その下にある湖の大きさが活きている。

満月の磧に来れば一人ゐる

季題「月」で秋。月を愛でるためか、それ以外の用事があったのか、満月の夜に河原に来てみると、そこには先客が一人いた。それが誰だとか何をやっているとかは語られないのだけど、真っ暗な夜の河原に、満月の光を浴びてたたずんでいる先客の姿がおそろしくも鮮やか。一方、「来れば」を「来たので」の意味にとると、一人ゐるのは自分ということになるのだけど、「来たので」「一人ゐる」という理路がよくわからないから、やはり「来てみると」と解するほうが自然であるように思われる。

(句帳から)

秋晴や昼からあいてゐる酒場
鉄橋を気動車徐行秋惜む
よもすがら秋のをはりの雨の音

 
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第124回深夜句会(9/20) [俳句]

(選句用紙から)

表彰式新たな霧に包まるる

季題「霧」で秋。「新たな霧」というからには、断続的に霧が出たり晴れたりしているのだろう。平地でもそういうことがないわけではないけど、山がちな村とか、あるいは山の中とか、そんな場所が想像される。
そこへもってきて「表彰式」というと、これはどういう状況なのか。山奥の小さな学校の運動会とか、トレールランニングの大会の表彰式とか、そんな状況だろうか。
で、競技中も霧が出たり晴れたり(で競技の模様が見え隠れしていた)だったのが、全部終わってさあ表彰式という今になっても、やっぱり霧に包まれてよく見えない、というのが面白い。

ふらふらと来て秋の蚊に食はれけり

季題「秋の蚊」。ふらふらと来たのは秋の蚊なのか、それとも食われた人なのか、そこが定かでないが、秋の蚊であれば「来て」でなく「来た」とか「来し」とするだろうから、人がふらふらと来たのだろう。「ふらふらと」は病気でもなく、体の支障でもなく、酔っ払って歩いているのだろうか(そのほうが、蚊に食われることとは整合する)。

古井戸に湛へし秋の水の面

(句帳から)

病院の前のバス停秋の暮
技術部の芋煮営業部の芋煮
露月忌や大河に面し船着場



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番町句会(9/15) [俳句]

きょうのお題は「太刀魚」と「甘蔗」。

(選句用紙から)

雲黒く海昏き日も甘蔗

 「涙そうそう」の「晴れ渡る日も雨の日も」を連想するのだけど、国内でサトウキビを詠むとすれば、和三盆の原料となる竹糖を除けば、どうしたって沖縄のサトウキビ畑ということになる。で、青空とか青い海とかがお約束のようになってしまいがちなのだけれども、南西諸島はまた台風や過酷な気象条件の影響を受けてきた場所でもあって、そのようなサトウキビ畑も、またその場所の季節を形作る上での重要な事実である。

お隣も同じ間取や秋刀魚焼く

あまりによくわかる―映画のワンシーンを切り取ったような―句なので「つきすぎなのでは?」と議論になる。お隣も同じ間取り、ということからして、これは集合住宅、それも鉄筋のマンションなんかではなく、庭先で秋刀魚が焼けるような長屋(関西なら「文化住宅」か)ということになる。そのうちの1軒で夕餉に秋刀魚を焼いていると、その煙とかにおいとかが、隣にもその隣にも流れていく…という風景。しかし、そういう長屋に住んだり見たりしたことのない世代もいるかもしれず、そうすると、数十年後にはこの句も注釈が必要になるのだろうか。


(句帳から)

甘蔗畑の先に不意に崖
圏外となりて楽しき野路の秋

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第123回深夜句会(8/23) [俳句]

(選句用紙から)
 
咲きつげる木槿の白し登校日

季題「木槿」で秋。毎日咲いては散りまた咲いては散り、を繰り返す白木槿が、ひさびさの登校日にも咲いていた。「登校日」は、新学期最初の登校日とも、また夏休み中に指定された投稿日とも読めるが、季題が木槿であることからして、新学期が前面に出てくるよりも、夏休みの一日と読むほうが楽。この句の興趣は、詠み手が、いま目の前に咲いている木槿から、自分が登校していない、つまり登校日の前後の日々に咲いては散っている木槿を想像していること。

溝萩を背負ふてベンチの二人掛け

季題「溝萩」で秋。公園なのか生垣なのか、ベンチの背後の草むらに赤紫色の溝萩が咲いている。その溝萩を「背負うように」ベンチに二人が座っている。座っている二人が溝萩を「背負っているようだ」と見たところがミソ。

(句帳から)

二段重ね三段重ね雲の峰
秋雲の影が動いてゆく広場

  

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番町句会(7/13) [俳句]

きょうの兼題は「駒草」。見たことのある季題だと助かる。
師匠の句評を聴くことができるのも半年ぶり。よかったよかった。

(選句用紙から)

駒草や囲ひの外に二三株

季題「駒草」で夏。山の稜線などの、人通りの多い場所へ行くと、グリーンロープなどが張られて、高山植物などの植生を保護しているのを見かけるが、そうした「囲い」の中で育っている駒草が、少しずつ増えていって、囲いの外にも二、三株見られるようになった。それほど目立たしい花ではないので、遠くから見てそれとわかるように増殖しているわけではないのだけど、ごく近くで見ると、囲いの外側にもちらほら、といった風情が感じられる。

痩尾根に駒草へばりついて咲く

高所恐怖症気味なのであまり近づきたくない場所のひとつが痩尾根だが、そうした剣呑な場所を慎重にたどっていると、視線の先にふと、風にとばされないよう尾根にしがみついている駒草の姿があった―このような悪条件の下で懸命に咲いている駒草は、お花畑のような広い場所で咲いているものとはまた違って見える。


(句帳から)

駒草の斜面の荒れてゆくばかり
ヨット二艇タッキングまたタッキング
すれ違ひ登山電車の無人駅
交番にかぶさつてゐる凌霄花
水着着て居眠りをして電車かな

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第122回深夜句会(7/12) [俳句]

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(選句用紙から)

集落へ下りる側道凌霄花

季題「凌霄花」で夏。
「側道」があるぐらいだから、まっすぐな幹線道路、たとえばスーパー農道とか国道みたいな高規格の道路が、地形と無関係にまっすぐ通っている。この高規格道路と「側道の凌霄花」との対比がこの句の眼目。その幹線道路から昔の道に、側道で下りていくのだけど、その側道の脇(の建物か何か)に、のうぜんの花がからまるように咲いている。いまどきの風景が具体的に伝わるところがよい。道路用地にかからずに残っている農家なんかが想像される。


はるかより降り来る雨や夏木立

「はるかより」は、夏空のはるかな高みから、と読むのが普通なのだろうけど、はるか遠いところ(遠隔地)から順々に、とも読め、そこがこの句の面白さでもある。詠み手はうっそうと繁った夏木立の中にいるのか外にいるのか。空の高いところが見えるか見えないか、ということなら夏木立の外にいて、夏木立に降り注ぐ雨を見ているということになるのだけど。

(句帳から)

遠雷の聞こえはじめてゐる牛舎
聞き疲れ話し疲れて夕焼かな

   
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第121回深夜句会(6/21) [俳句]

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(選句用紙から)

ふるへてはさらにねぢれんねぢればな

小さく細い花であるのに、ちゃんと勢力を拡大して生命力にあふれているのがねじ花なのだけど、それが風でふるえるたびに、いっそうねじれていくように見える、という句。ピンクや紫の微細な旗のような花がぐるぐるねじれていて、それが風に揺れているというところが、実景でありながら少しファンタジーめいた雰囲気をかもしだしている。


オリーブの花の終ひの日曜日

「オリーブの花」で夏なのだろう。よく見ないと咲いていることに気づかないような小さな白いオリーブの花が、ようやく茶色く干からびるようにして咲き終わると、やがて実がつくのだけど、いつ咲き始めていつ咲き終わったのか判然としないようなオリーブの花の「終い」が下五と響きあう。たとえばこれが「山桜花の終ひの日曜日」とか「山茶花の花の終ひの日曜日」だと、どうもしっくりこない。


(句帳から)

予備校の窓より見ゆる茅の輪かな
総督府ゆつくり回る扇風機
梅雨寒や夜の水銀灯の色


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第120回深夜句会(5/17) [俳句]

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(選句用紙から)

耕運機の跡の斜めに代田かな

季題「代田」で夏。まだ苗を植える前の、水を張った田んぼに、それとわかる程度に耕運機の跡が盛り上がっている。なにげなく読むと「ふーん」で終わってしまうのだけど、耕運機の跡が盛り上がるのは、耕地の形が不整形で、耕運機がしばしば方向転換を強いられるからであることを思うと、「そういう田んぼが連なっている風景」が思い出される。

遠足の子をかきわけて降りにけり

季題「遠足」で夏。朝の通勤電車から下りようとすると、その駅から乗り込もうとする幼稚園児か保育園児が先生に連れられておそろいの帽子で、勢いよく乗り込んでくる。おいおい下りる方が先でしょ、と苦笑しつつも、「かきわけて」下りたのだった、という句。東京近辺でも、朝のホームに整列して、何本かあとの電車を待っている風景をよく見かける。

(句帳から)

順番に離陸してゆく夏霞
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番町句会(5/11) [俳句]

きのうまでの寒さから一転して、汗ばむ陽気。体がついていかない。

(選句用紙から)

二坪に満たぬ畑や麦の秋

どんな畑なのですかね。麦を植えていることからして、家庭菜園とかではないとすると、道路際とか斜面とかで、わずかな場所で一区画になっている畑(道路の拡張工事なんかで、もっと大きな田畑だったのが不自然な形の小さな区画になってしまっているような場所)であろうか。
その「二坪にも満たない」小さな畑に、全体が持ち上がるようにして麦が薄茶色に稔っている。小さな区画であるだけに、その立体感ともいうべきものが明瞭に感じられる。

春の雲風に押されて北へ北へ

南から北に風が吹いているのだろうか。「北へ北へ」という散文的な表現が一句の眼目でもあり、人によっては採れない理由でもあろう。「春の雲」にありがちなイメージとはちょっと違って、急速に吹き流されている雲の様子。

(句帳から)

十薬の蘂ことごとく上向きに
薔薇色の薔薇といふほかなき真紅
野茨の花の白さや校舎跡
蔓薔薇の白の濃淡連なれる

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第119回深夜句会(4/19) [俳句]

投句を準備するため「マメヒコ」でお茶をいただきながら掲示物を見ていてびっくり。宇田川町店(旧渋谷店)が6月末で閉店するという。これはたいへん残念。

(選句用紙から)

朝寝しておからを口に含みけり

春の休日の至福。ゆうべの残りのおからであろうか。なんだったら、朝からすこし酒をいただいてもいいぐらいの気分。夏や冬は論外だし、秋よりも春のほうが「はまる」ので、季題が動かないことにも感心する。

裏山のシンボルの木の蔦若葉

季題「蔦若葉」で春。
家か学校か、勤め先なのか、その背後に「裏山」といえるような起伏があって、さらにその「裏山」に、シンボルと目される大きな木が植わっている。で、そのシンボルの木がどうなったかと思いながら読んでいくと、その木に蔦が巻きついていて、それが一斉に若葉を生やしているという一句。木はまだ芽吹いていないのか、それとも常緑樹なのかは定かでないが、ともかくシンボルツリーの蔦若葉だという。一見、それがどうしたのと言われそうだが、作者と「シンボルの木」のあいだに、ちょうど蔦若葉が見て取れるぐらいの距離があること、また「シンボルの木」が認知されるような共同体の存在など、背景から汲みだせることは多い。

わが猫の一匹をらず月朧

季題「朧月」で春。
帰宅してみると、何匹かの飼い猫のうちの一匹が見当たらない。外は朧月夜。さてどこでどうしているのか、ちょっと心配しつつも、外でデートを楽しんでいるのかとも思ったりする。人によっては「月朧」がつきすぎと感じられるかもしれないが、私にはほどよいファンタジー風味(ここでほどよいとは、狙ってそうしたものではなく、結果としてそう感じられるという意味)で好ましく思われる。

(句帳から)

高尾行河口湖行山笑ふ
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第118回深夜句会(3/22) [俳句]

(選句用紙から)

味噌汁の匂うてきたる春の寺

ほろほろとおからをこぼす春ともし

椿咲きまた椿咲き落椿

(句帳から)

祖母と母住んでゐた家桃の花
バス停の前の畳屋春の昼
げんげ田の中を片側三車線



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第117回深夜句会(2/22) [俳句]

(選句用紙から)

料峭の公園に人来ては去る

季題「料峭」で早春。春寒しとも。真冬でなく春なので遊びに来る子もいるのだけど、ほんとうに暖かいわけではないので、すぐまたいなくなってしまう、と書くと理屈に陥ってしまうのだけど、ここでは、ずっとその公園(または隣接した場所)にいる作者の視点―なぜそこにいるかは示されていないのだけど―を好ましく感じる。

町騒の内にうするる薄氷

季題「薄氷」で春。薄氷が「うするる」ってどうなの、と言われそうだが、町のさまざまな喧騒のなかで、顧みられることもなく形を消していく薄氷を描いて過不足ない。


(句帳から)

比良八荒二両の電車往けるかな
畦道の先耕してゐるにほひ
 


 
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第116回深夜句会(1/18) [俳句]

(選句用紙から)

鍵盤の沈めば響く冬館

季題は一応「冬館」で冬。「夏館」ほど定着しているのか微妙な季題だが、冬らしく設えたり備えたりした邸宅と読むのだろう。その冬館にオルガンかチェンバロかピアノか、鍵盤楽器が備え置かれていて、それが弾かれると、館内によく響く。室内に充満している冬の空気感とか、固い床板の冷たい感じとかが「響く」から連想され、そうすると冬館自体も、たとえば牧師館のような建物であろうかと想像される。楽器を「弾く」といわず、鍵盤が「沈む」としたところがよいのだろう。ただ、「沈めば」だと自然に沈んだようにも読める。くどく言えば鍵盤を「沈めたので」となるところか。


雨粒の細かく砕け寒の雨

季題「寒の雨」で冬。雨粒が細かく砕けているのは当たり前のように読めてしまいがちだが、この句では霧雨のような細かい雨をさしているのではないかと。厳寒の日々に降る雨ではあっても、必ずしも大粒でたたきつけるような雨ばかりでなく、細かく静かに降る雨もまた「寒の雨」である。


味噌汁に冬菜の色の濃くありて

季題「冬菜」で冬。味噌汁の鍋に入っている冬菜(白菜、小松菜、壬生菜など)が色濃く感じられる。万物枯れ果てたこの時季に、ふと目に留まった生命感。


(句帳から)

風花や湖にある船着場


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上田信治句集『リボン』(2017、邑書林)を読む [俳句]

上田信治さんから、句集『リボン』をご恵贈いただく。ありがとうございます。

あとがきによると「この句集は六つの章に分かれています。ざっくりとした書き方の違いで、分けました。」とあって、実際さまざまな手法が試みられているのだけど、ベースにある「上田ワールド」とでもいうべきものは、どの章でもそう違ってはいないように思われる。

吾亦紅ずいぶんとほくまでゆれる

季題「吾亦紅」で秋。吾亦紅が揺れている、という句はいくらもありそうに思うのだけど、「とほくまで」がこの句の眼目。「大きく」とか「左右に」とか言わないで、わざわざ「遠くまで」と述べることで、あたかも吾亦紅がいまいる場所を遠く離れてまで揺れているかのような錯覚を覚えたり、そこまでいかなくあても「あっちのほうまで」揺れているという距離感が楽しめる。
また、吾亦紅は丈の低い草なので、「とほくまで」というと、作者の視点が草の高さと同じところにあることも感じられる。

水よりも汚れていたる氷かな

季題「氷」で冬。冬の川なのか池なのか、全部凍ってはいなくて、水面がのぞいているのだけど、その氷の部分が存外きたない。動いている水のときには気にもとめなかった濁りや浮遊物などが、いったん氷として固定されたとたんに、色や形としてまがまがしく目についてしまう。
氷は透明できれいなもの、というお約束があるとすれば、そういうお約束から遠く離れて、ただ眼前の事実として描くことで、氷の性状をよく言い得ている一句。

すぐそこに灯台のある葱畑

季題「葱(畑)」で冬。どういう葱畑なのかはわからないが、「すぐそこに」灯台があるというので、海が間近で、それも大都会ではなく灯台があるような地域だということになる。
葱畑の「すぐそこに」灯台があるので、畑のどこにいても灯台の白い壁面がどーんと視界に入ってくる。その白い壁と冬の青い空のコントラストがさらさらした感じで、葱畑の色と好対照。

ま上から見るガス工事冬の雨

「ま上から」がどこかは書かれていないが、歩道橋とかではなく、ビルの一室から見ているのだろう。そうすると、ビルが面しているその道路が掘り返されて、土の中からガス管が吊り上げられたり、新しいものが埋められたりしているのだけど、そこに冬の雨が降り注いでいる。その冬の雨のさむざむとした感じが、歩道を通りがかって見たときの風景から感じられるものとは違った意味で寒さとして感じられた、というところに眼目があるように思うし、読者の共感を得るのだと思う。

韮の花すこし歩けば沼だといふ

季題「韮の花」で秋。小さい白い花が初秋にいっぱい咲くのだけど、この句の場所はどんな場所なのだろう。すれ違う人が「ここからは見えないけど、このすこし先に沼がありますよ」と教えてくれたということから、国道とか県道というより、公園の散策路とか山道のような場所であろうか。近くに沼があるような水辺の森か野原を歩いている作者の立ち位置が、何も説明しなくてよく描いている。下五の字余り「といふ」も、他者の存在を強調していて効果的。




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番町句会(1/12) [俳句]

(選句用紙から)

寒の雨湛へ佛足石閑か

季題「寒の雨」で冬。寒中に降る雨。
もっとも寒い季節に降る雨が、お寺の境内であろうか、仏足石(石に刻まれた釈迦の足跡)にうっすらとたまっている。その仏足石も、降り注ぐ雨も、寺院の境内全体も、「閑か」だというのである。真夏や台風の激しい雨とは違う、静かに降り続く雨と、それを受け止めている静かな寺院の風景。

冬ざれの苑に娘と二人で来

季題「冬ざれ」。
春や秋には薔薇や桜が咲き誇って多くの人が訪れる庭園も、冬には花も乏しく、彩りにも欠けて人影もまばらになる。その庭園に、きょうは娘と二人でやってきた。父と娘でも母と娘でもいいのだけど、冬ざれという季題からは、父と娘が言葉すくなに時々やりとりをしている様子などが想像される。虚子の「我一語彼一語秋深みかも」(六百五十句)を思わせる一句。

(句帳から)

蝋梅をバケツに活けてブックカフェ
五叉路から車つぎつぎ春近し
かんじきの結はえられたるリュックかな

 
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第115回深夜句会(12/21) [俳句]

年内あと10日というところで、ことし最後の深夜句会、気がつけばもう115回目。

(選句用紙から)

電飾の青の巻きつく冬木かな

季題「冬木」。ここでは葉が落ちた裸の木に、青色のLEDが多数巻きつけられた風景であろう。電球色とか白色でなく、寒さを強調する青い色の電飾を施し、寒々とした風情で立っているのだけど、生命感覚と縁遠い青の電飾が、あたかも蔦のように自律的に「巻きつく」という表現がこの句の生命。

鳥のこゑ点々とあり日向ぼこ

季題「日向ぼこり」で冬。鳥の姿が点々とあるのなら凡庸な一句だろうが、鳥の声が点々とある、というのだ。そうすると、目をつぶっていたとしても遠近上下左右のあちこちから声が聞こえる、ということから、ある程度広い庭とか公園のような場所であって、小さな庭に面したガラス戸の中とかではないことがわかる。そうした鳥の声に耳を傾けるぐらいの精神的余裕のある日向ぼこりである、ということも楽しめる句(切羽つまった日向ぼっこってあるのか、というツッコミは禁止する)。


(句帳から)

一区画を四つに割つて枯芙蓉
咳の子に小さな声で話しかけ

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第114回深夜句会(11/16) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のわづかに残り虫の声

季題「虫の声」で秋。「わづかに残り」がいいですね。場所についてとやかく説明しなくても、駅や学校、工場などの「大きな自転車置場」であることは明らか。朝や昼間はたくさんの人が自転車をとめるので、虫の声なんか聞こえる余地がないのだけど、夜になって大半の利用者が帰ってしまい、自転車がまばらになると、敷地の中か外のどこかから、虫の声が聞こえてくる。


スナックの客の熊手の忘れ物

季題「熊手」で冬。ここでいう熊手は、落葉掃きにつかう実務的な熊手ではなくて、酉の市でもとめてきた縁起物の熊手であろう。詠み手はスナックの客。居合わせたほかの客が帰ってしまったあとをふと見ると、その客がさっき酉の市で買ってきて、お姉さんに自慢気に話していたその熊手が、忘れ物としてぽつんと残っている。
この句を楽しもうとすると、現在(2017年)における「スナック」という商売の世間的位置(大げさだが)を理解しないといけない。あまり思ったとおりのことを書くと、現にこの商売をされている方のご迷惑になってしまうのだけど、少なくとも、勤め人がこぞって足を運び、かわりばんこにマイクを握りしめ、棚にはオールドのボトルがずらっと並んでいるなどという風景は過去のものになりつつあるように思われ、そうした中でスナックに(少なくとも時々は)通っている詠み手と、顔はときどき見かけるけれども名前は知らないその客と、そのいずれもが、少々時代から取り残された存在であるところが、この句に味わいを与えている。

(句帳から)

アーケードの欠けたるところ冬の月
我慢して一層ひどく咳きこんで
荷物用エレベーターの聖樹かな

 
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番町句会(11/10) [俳句]

半年ぶり?いやそれ以上欠席が続いていたように思われ(自分のことについて「思われ」は変なのだけど、あまりに記憶が遠いので)、きょうは10人が参集。
きょうの席題は「柊の花」「鷹匠」。毎度のことだがうむむ。

(選句用紙から)

浜離宮へ晴れて鷹匠補となりて

季題「鷹匠(たかじょう)」で冬。鵜飼いを仕事とする鵜匠と同様に、鷹を育てて鷹狩りをするのだけど、宮内庁にはいまでもそういう役職があるとかで、ここでいう「鷹匠補」というのはその役職のひとつなのであろう。どういう経緯でこの世界に入ったかわからないが、さまざまの苦労の末に「晴れて」鷹匠補という役職をいただき、そのお披露目だか発令式だかのために鷹を連れて浜離宮へおもむく、といった句意か。「晴れて」が冬の東京の晴れた空を連想させて好ましい。

飛び上がれば又その石に石たたき

季題「鶺鴒(せきれい=石たたき)」で秋。石たたきは鶺鴒の異名で、長い尾を振る様子が石をたたいているように見えるのでそのように呼ばれるそうだが、どこにでもいる鳥ではあるが、ここでは川原などで、ふと飛び上がった鶺鴒の着地点である大きな石に、すでに先客がいた。

(句帳から)

山茶花の咲き疲れたる小庭かな
肩車十一月の日曜日
鷹匠の終始無言でありしかな
 
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第113回深夜句会(10/26) [俳句]

急に寒くなったり暑くなったりする毎日。秋の句と冬の句が混在していても全然違和感なし。

(選句用紙から)

赤子ゐる車両ことこと秋日和

「電車」でなく「車両」というと、列車全体のなかのある一両、という意味になるので(その前に、バスやタクシーやリヤカーも「車両」なのだけど、ここはまず電車の話ととった)、前後にほかの車両がいるかもしれないし、いないかもしれないが、その一両のどこかに、ベビーカーかだっこ紐かで親に連れられて、赤ん坊がひとり乗り合わせている。赤子が目覚めているのか眠っているのかはわからないが、電車はことことと音を立てながら進んでいく。窓を通じて赤子にも日差しがふりそそぎ、さらにその電車全体にも、外側から見れば秋の日差しがあたっているであろう、という多幸感にあふれた一句。「ことこと」が気になるといえば気になるが、許容範囲か。

蓑虫の糸ひとすぢにしたたかに

季題「蓑虫」で秋。虚子に「蓑虫の父よと鳴きて母も無し」の句があるが、その姿が哀れを誘う虫でもある(こどもの悪戯のターゲットになりやすい虫だが、最近あまり見かける機会がないのはどうしたことか)。しかしこの句に出てくる蓑虫は、同じように糸をひいてぶら下がってはいるが、作者には「したたかに」守りを固めているように見える。これもまた、観察から得られる着想であって、お約束に陥らないために必要なことだと思う。「ひとすじにしたたかに」のたたみ掛けも巧み。

(句帳から)

秋の暮自転車が過ぎ影が過ぎ
グランドのこちら側だけ秋の霜
校舎の裏講堂の裏刈田かな

 
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第112回深夜句会(9/28) [俳句]

急に寒くなる。秋の雨も降っている。

(選句用紙から)

秋の日のゴミか何かの白きもの

人によっては「ゴミか何かの」が口語的に過ぎると感じられるだろうけれども、この措辞は、あえて何であるかを特定しないまま「白きもの」とだけ言っておいて、それが秋の日の庭先だか道端だかに落ちている、という面白さにある。秋だから白、というだけでは単なるお約束なのだけど、この句では、なんだかわからないその白いものが、秋の色として提示されている。芭蕉が「石山の石より白し秋の風」(秋)、「海暮れて鴨の声ほのかに白し」(冬)のように風や声に色を見出したのとは違った面白さ。

かなかなの爪先立つてゐるやうな

ひぐらし(かなかな)の姿を詠んでいるようにも、また鳴き声を詠んでいるようにも感じられる。後者なら、ひとしきり鳴いて、デクレシェンドかつリタルダンドして鳴きやむ感じを「爪先立って」と叙したものだろう。

(句帳から)

落し水鳥海山に羊雲
実のやうなものこぼれ落ち葉鶏頭
来ては去りまた来ては去る小鳥かな
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