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山内裕子句集『まだどこか』を読む(2)人のあらわれかた、動物のあらわれかた [俳句]

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次に、「人や動物のあらわれかた」の視点から、印象に残った句を鑑賞してみたい。

きちんと数えて他の句集と比べたわけではないのだけど、『まだどこか』の登場人物はそれほど多くない。そのため、ページごとに父とか母とか孫とか妻とか上司とかが出てくる句集(それがいけないといっているのではないので、念のため)に比べれば、静かなおもむきになっている。
しかし、その数少ない登場人物が印象的に描かれ、場面の転換や句の(配列の)流れを変える働きをしているように思われる。

看板を蹴つて屋根方鉾まはす

季題「祇園祭(の鉾)」で夏。その山鉾の屋根の上、両側に陣取って電柱などとの接触に備える役回りが「屋根方」、と書いてしまうと何気ないのだけど、あの高い山鉾の上に、ただ落ちずに座っているだけでも大変なのではないかと。
で、テレビで見る例えば四条河原町みたいな大きな交差点の真ん中で方向転換する場合なら、ある程度のスペースがあるからこういう風景にならないのだけど、どこか狭いところで鉾の進路を変えなければならないのであろう(鉾には鉄の車輪がついていて、その方向を変えるのは、とても難しいと聞く)。ぎりぎりで回そうとするのだけど、山鉾の屋根が道路沿いの商店かなにかの看板にぶつかりそうになった。山鉾は背が高い(重心が高い)から、まともにぶつかれば大事故になるところだが、そこで屋根方が片足を屋根に残したまま、片足で看板を蹴り(自らの危険を顧みない軽業!)、かろうじて事故を避けて山鉾を回しおおせた、という場面。文章で書くとかくも面倒なことを、17文字で過不足なく詠んで詩情をもたらしているのだが、さらには句集全体のなかでも、この鮮やかな場面が、句の進行にリズムをつける役割を果たしているように思われる。

霧の駅に隣の席の人下りし

季題「霧」で秋。電車が減速して駅に止まると、そこは濃い霧に包まれている。その様子を眺めていると、いままで隣の席に座っていたお客さんが立ちあがって下りていった。その後ろ姿も、あっという間に霧に隠れてみえなくなってしまう。ホームには誰もいない。自分のとなりに空席だけが残る。まるで初めから誰も座っていなかったかのようだ。宮澤賢治の物語の一節を連想させる、ミステリアスな一句。

紙雛ひとつ置かれし祠かな

季題「紙雛」で春。ここで詠われているのは、「いまここにいない人」。


小屋掛けの二階より子や年の市

季題「年の市」で冬。正月のしめ飾りや祝儀物なんかを商う市。さすがに駅前で小屋掛けとはいかないだろうから、寺社の境内であろうか、仮小屋をしつらえて、ちょっと本格的に商っているのだけど、そんな商品がぎっしり並べられた仮小屋の二階から、子供が下りてきた。このお店の子だろうか。普段はどこでどうしているのだろうか。いつからいつまでここにいるのだろうか。余韻があとを引く一句。

年を守り終へし茶碗を洗ひをり
季題「年守り」で冬(歳晩)。「洗ひをり」としたことで、洗っている自分を後ろから見つめているような不思議な視点になる。

珍しく父のゐる昼子供の日
座り込む外人二人サングラス
島渡船山笠の男と乗り合はす

ときどき効果的に現れる「人」と同様、さまざまな動物もまた静かな写生の対象でありながら、俳句の流れを変える役割を果たしている。

口明けて獏の寝ている春の昼

猿や猫ではなく、バクが口をあけて寝ているというのだけど、いったいバクの口って、あの長い先端のどこが口でどこが鼻なのか、そして口をあけたらどんな風になるのだろう。のどかな春の昼らしい、いささかのおかしみをたたえた風景。

片陰をはみ出してゐる猫の耳

季題「片陰」で夏。暑さを避けて日陰で寝そべっている猫の耳だけが、その片陰からはみ出て日があたっている。「猫の額」は狭い場所の代名詞だが、「猫の耳」とはさらにわずかなものをよく観察したものだと思う。その耳がひくひく動いていたりして。

まだどこか壊れものめく仔馬かな
草市のはづれ子犬のつながれて
水引の花の先より蜘蛛の糸
黒猫の跳んで狗尾草の中


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