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山内裕子句集『まだどこか』を読む(3)時のうつろいかた [俳句]

まだどこか.jpg

その次に、「時のうつろいかた」の視点について。

虹立つているところまで行けさうに

季題「虹」で夏。雨が上がって日が差して、明らかで鮮やかな虹が立ったのであろう。むこうに見える家並のどこかから立ち上がっているように見える虹の、その足元まで歩いていけそうな気がする、それほどくっきりとした虹であることだ。「行けそうに」の心躍る感じ(しかし、手放しにはならない)が印象的。

近づけどもう虹も無くなにも無く

前の句を受けて、虹の足元まで歩いて行こうと勇んで近づいていったけれども、その場所にはむろん虹の足などなく、しかし虹が同じ方向の遠くに逃げていくわけでもなく、かえって虹そのものも見えなくなってしまった。虹もなく「なにも無く」の踏み込んだ物言いが「行けそうに」とは逆の心の動きを描いている。

97ページに並んでいるこの2句を読むと、多くの読者は虚子『六百句』の

 虹立ちて忽ち君の在る如し 虚子
 虹消えて忽ち君の無き如し 虚子
         (昭和19年10月20日※)

を連想されるのではないだろうか。
虚子のこの2句(※『句日記』には同じ10月20日の句として「浅間かけて虹の立ちたり君知るや」「虹かゝり小諸の町の美しさ」の2句とあわせて4句が収録されている。)と『まだどこか』の2句を比べると、虚子の2句が「立ちて」「消えて」で時の経過を表現しつつも対句的な表現に面白さがあるのに対し、『まだどこか』の2句は、後の句が前の句を受ける形で時間がすすんでいく、そのうつろい方に詩情が感じられる。またこの2句は、片方が「行けそうに」で終わっているため、連句の発句と付句のように続いていく感じを醸し出していて、この点は句集を編む上でねらいとされているのかもしれない。164ページの2句「行き合はす人に祝はれ七五三」と「下の子を抱き髪置の子を連れて」にも同様の感じがある。

句集『まだどこか』にはこの他にも、時のうつろいを描くことで抑制された抒情を表出した句が時折現れる。例えば、「これから起こる何か」を念頭においた

 頂上を今越えてゆく山火かな  
 まだ何もしてない畑いぬふぐり

などの句や、「かつて起こった、かつてあった何か」を念頭においた

 旧館の跡の花野でありしかな
 かつて住みし路地まだ残りみみず鳴く
 震災の石碑に罅や草の花
 捨て畑の天水桶の初氷

などの句は、単に「何がどうなった」というのでなく、長短さまざまな時間の経過が、淡い詩情をもたらしているように思われる。


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