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山内裕子句集『まだどこか』を読む(1)場所の切り取りかた [俳句]

ともに「夏潮」運営委員を務める畏友山内裕子さんから、第一句集『まだどこか』(2014、ふらんす堂)をご恵贈いただきました。ありがとうございます。
まだどこか.jpg

句集を読むときには鉛筆を握りしめ、共感できる表現や鑑賞、先行する著名な句との相異その他をどんどん書き込んでしまうのが自分の流儀なのだけど、『まだどこか』にはずいぶん多くの書き込みをして、すっかり汚してしまった。多くの実作者に読んでほしい句集と感じるので、手にとっていただくための一助に(なるか心もとないが)、強く印象に残った
 「場所の切り取りかた」
 「人のあらわれかた、動物のあらわれかた」
 「時のうつろいかた」
 「わずかなもの、かすかなものに向けられた視線」
の4つの柱をあげて、いくつかの句を鑑賞してみたい。

最初に、「場所の切り取りかた」について。

鉄橋の下に町あり青嵐

季題「青嵐」で夏。「今は山中、今は浜…」という歌があったけど、列車に乗って(バスに乗って、でもよいのだが、景色が気に入っても停めることができない鉄道橋のほうが「町あり」が生きる)、あるときトンネルを抜けてすぐ高い橋を渡った。鉄橋の下にあるものといえば河原と相場が決まっていそうなものだが、ふと鉄橋の音に気付いて下を見ると、そこに町並みが広がっていた。そして、鉄橋を渡っている自分の列車も、眼下に広がるその町並みも、強い風が吹き渡るただなかにある。
ここでその青嵐がどんな青嵐か、ということは説明されていないけれども、眼下の町並み、その上の鉄橋、その鉄橋を渡る列車に乗っている自分、さらにそれらを鳥瞰する視点(たとえば山と海が接し、河口ともいえないような小さな河口に小さな町が広がっている)。場所を切り取ってくる切れ味によって、いまその場所を充たしている季題「青嵐」が、お約束を超えたリアルなものとして感じられる。記憶のなかのファイルをめくってみると、東海道線の根府川とか、五能線の深浦、松浦線の相浦(あいのうら)…他にいくらもあるだろうが、もっと遠くではポルトガルのポルトに、これに似た風景があることが思い出される。

一台の車出てゆく明易し

季題「明易し」で夏。「短夜」「夏の朝」とも。
車「出てくる」でなく「出てゆく」ってどういうことなのかとしばらく考える。「出てゆく」というからには、詠み手は、車の出発点側にいることになる。それはどんな場所か。例えば、ビルの何階かの窓辺にいて、その同じビルの地下駐車場から出てゆく車を見ているとか。でもそれでは、徹夜で仕事をしたとでも考えないと「明易し」が生きてこない。考えた末に思いあたったのは、フェリーの寄港地ではないかと。自分はそのフェリーに乗っていて、引き続き航海を続けるのだけど、早朝に寄港した小さな港で、フェリーの車両甲板から一台の車が岸壁に「出てゆく」のだ。一台出ていってそれで終わりであること、また早朝であることから、そこはそれほど大きな町でなく、むしろ離島をめぐる航路なんかが想像される。岸壁へ出ていく車、フェリーの車両甲板、上でそれを見ている自分、さらには港と船とを俯瞰している誰か、という場所の切り取り方の手腕が、「短夜」という季題に新たな詩情をもたらしている。

それぞれの高さに浮かぶ秋の雲

「それぞれの高さ」にしびれる。文字通り、形の異なるいくつもの雲が「それぞれの高さ」に浮かび、その奥には秋の色をした青空がある。春は空全体がぼんやり霞んでいるし、夏の雲にはもっと野性味がある。冬は、天気がよければ太平洋側で澄み切った青空になるけれど、風が強いから、それぞれの高さに「浮か」んではいない。理屈に陥ることなく、秋の雲の秋の雲らしさを言い切った名句だと思う。

この視点では他にも

 春嵐いろんなものが落ちてをり
 待ち合はす列車のライト春の雪
 春潮の底へと伸びてゆくロープ
 隣り合ふ通用門や柿若葉
 棕櫚咲いて売地に影を落としけり
 白芙蓉山門近き駅に下り
 道よりも低き山門秋の風
 上空に風ある空の木の葉かな
 しぐれ雲但馬の空を塞ぎたる
 欠航とあり短日の乗船場

などの句が印象に残った。

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