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祝・本の雑誌400号 [本と雑誌]

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この10月号で『本の雑誌』が創刊から通算400号に到達。いろいろな雑誌を定期購読したけど、ずっと続いているのは『図書』と『本の雑誌』だけ。
400号を単純に12で割ると、33年と4か月で達成できることになるけれど、途中までは隔月刊(さらにそれ以前は不定期刊)だったので、創刊から数えるとずいぶんな年月が経っている。書泉グランデ1階の平積みを手にとって「何だこの雑誌は!」と驚いたのが1983年なので、もう33年も前のことになる。

今月号で一番面白く、感心させられたのが堀井憲一郎さんの「岩波文庫〔緑〕の欠番を調べてみる」で、これは本好きの人なら誰でも、気にかかっているけどちゃんと調べる機会がないテーマといったら大げさか。何番が(=どの作家が)、いつ欠番になったのか(1927年の創刊直後なのか、ごく最近なのか)って、一出版社の品揃えの話ではあるが、作家の社会による受け入れられ方の変遷を表しているわけだから、調べたらすごく面白いと思う。逆に、どの作家がいつ岩波文庫に新たに収録されたか、も面白いだろう。この「ホリイのゆるーく調査」のコーナーは、ともかく単純なモノサシでどんどん調べていくところがいい。ちなみに自分がこれを調べろと言われたら、毎年の岩波文庫解説総目録をさかのぼって調べるのが正確なのだろうが、あの総目録って図書館に所蔵されているのだろうか。
それにしても、緑の1番って、仮名垣魯文だったのですね。知らなかった。

これに対して、坪内祐三氏の「変わりゆく出版社と変わらない出版社」でも岩波文庫の話が出てくるのだけど、こちらはみごとなまでに「主張はあるが、例示も根拠もないので理解不能」な代物なのだ。具体的には、

(ここから引用。21頁中段〜下段にかけて)
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それから岩波書店もクオリティーを維持している。
いやむしろ、私の学生時代と比べて上っている。
特に岩波文庫。
私の大学時代、岩波文庫の新刊のレベルはひどかった。そのひどさを私は学生時代にミニコミ誌『マイルストーン』で書いたことがある(二十枚を超える大論文だ)。編集部に百円を越える切手を同封して手紙くれればそのコピーを送ってあげる。
ところがこの二十年ぐらい(ちょうど私が『週刊文春』に「文庫本を狙え!」の連載を始めた頃から)そのクオリティーが上り、しかもそれをキープしているのだ。『文庫本を狙え!』は出来るだけヒイキなく色々な文庫を紹介したいのだが、気がつくと岩波文庫に片寄ってしまう。
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(ここまで引用)

・私の大学時代って、いったいいつですか。「昭和40年代から50年代前半にかけて」みたいな書き方はできないのですか
・岩波文庫の新刊のレベルがひどかった、って、それ造本の話ですか、セレクションの話ですか。まあセレクションの話だと思うのだけど、たとえばどんな「ひどい」新刊を出していたのでしょう
・それを知りたい読者は、編集部まで100円を超える切手を送らないと教えてもらえないのですか
・で、20年前ぐらいからそのレベルが向上したというのだけど、これまたたとえばどんな新刊がそれに該当するのですか

例示も根拠も何もないので、合点がいかないし、これ読んで共感しろとか楽しめといわれても無理だ。
この雑誌の読者は、程度の差はあれ本を読むのが好きなのだから、坪内氏が何をもって岩波文庫を持ち上げたり落としたりしているのか、せめて表題を示せば、根拠は示されないにしてもそうだねとか違うねとか反応することができるのだけど、それさえないのでは、どうにもならない。
こんな与太話にどうして付き合わなければならないのだろう。

第100回深夜句会(9/15) [俳句]

めでたく第100回。写真を撮り忘れたのが残念。

(選句用紙から)

石灰のラインの白し花木槿

季題「槿」で秋。運動会でもあるのだろうか、校庭やグランドに石灰で白い線が引かれているが、その横の塀際だかフェンス際には、木槿の花が群れ咲いている。石灰の線なのだからもともと白いのは当たり前ともいえるところ、その「白」がことさら白く感じた、というところに詩心があって、そこが木槿の白い色とも重なっているのですね。

秋草をテーブルごとに違う色

季題「秋草」で秋。テーブル「ごと」と言っているので、自宅とかではなく、多くのテーブルを擁する場所、例えばレストランのような場所が想像される。そこへ秋草、たとえば桔梗とか女郎花とかを卓上花として飾るのだけど、テーブルごとに異なる草花をいけた、という句。自分や自分のスタッフがそのようにいけた、という立場で詠んでいるのか、それともお客として訪ねてみたらこうだった、という立場で詠んでいるのか判らないところが残念だが、秋の草花のさまざまな色が感じられる一句。

(句帳から)

青山のカフェのバケツの叢芒
脱毛サロン育毛サロン爽やかに
かなかなのいつもデクレッシェンドかな