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高橋秀実『はい、泳げません』(新潮文庫、2007) [本と雑誌]

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仙台の町を歩いていたら、アーケードに面した本屋の様子に見覚えがある。見覚えがあるのみならず、学生のころ、この本屋に入って本を買ったことがあるような気がする。仙台にはこれまで両手の指ぐらいの回数しか行ったことがなく、そのときもなぜ仙台の町を歩いていたのか思い出せないのだけど、この本屋でハードカバーの本を買って、春先のみぞれ降る中を仙台駅まで歩いたような、奇妙に具体的な記憶が残っている。

記憶の混線がもたらす既視感(←よくある)なのかもしれないが、大昔のことゆえその場で真偽を確かめようがないし、自分の記憶があてにならないこともよくわかっているので、文庫本を一冊買い、カバーをかけてもらい、帰宅してから古い記録と照らし合わせることにした。ーーー

この本、東京行きの新幹線に乗っているあいだに読めてしまうページ数なのだけど、「たいていの人が体を動かしながら、よくわからないままになんとなくそんなものかと考えて済ませてしまうこと」を、どこまでも言語化しようとする凄まじい努力が逆に笑いを誘うというか、おかしくてたまらない。どこまでが計算してズラしているのか、またはどこからナチュラルにズレているのかよくわからないぐらい変てこりんな記述なのだけど。いまだに泳ぎの苦手な自分が強く同意したのは「溺れかけたときの記憶が細部まで鮮明である」という箇所。あれはどういう理屈なのだろう。

文庫版のためのあとがきを読んでさらに驚いたのは、これがどこかの自治体の市民プールみたいな場所で、著者が何者であるか知られずに行われた講習ではなく、青山の高級スポーツクラブ(高級かどうか調べてないけど、場所柄そうなんだろう)で実際に行われたレッスンに基づく作品だったという点。いやむろん、そのことはこの作品の価値を損なうものではないのだけど、生徒が誰だかわかっていてレッスンするとなったら、コーチとしても言葉を選ばざるを得ないというか、自分のレッスンがどう記述されるか意識するわけだから、言語化のための特別な取り計らいが生まれやすいのでは。

さて冒頭の既視感問題に戻り、帰宅して古いノートを引っ張りだしてみる。ノートには1979年1月1日以降、新たに買い求めた本のタイトル・著者・購入した書店の名前・日付・金額が書かれている(2000年1月以降はExcelで作成しているので、ノートの最後は1999年12月になっている)。それによると、

1982年(昭和57年)

50 こころの旅 付 本との出会い 神谷美恵子 みすず書房 7.27 仙台・金港堂

となっている。「50」はその年50番目に買い求めたことを示す。

既視感は幻覚ではなかったのですね。ただし記憶と実際が違うところが2つ。1つは、春先でなく夏だったこと。もう1つは、記憶の中のこの本屋は東を向いて(つまり、南北のアーケードの西側に)建っていたが、実際は西を向いて(アーケードの東側に)建っていたことだ。みぞれの中を歩いたのは、おそらく、次に仙台を訪ねた1984年3月だろう。

いろいろなことが急に思い出されてきた。当時、みすず書房から数か月ごとに出ていた「神谷美恵子全集」を楽しみにしていたのだった。今なら、重い本は地元の本屋で買うのだろうけど、わざわざ旅先で買って読んでいるので、旅行中ずっと持って歩いたのだろうか。
ついでにいえば、神谷美恵子の存在を教えてくれたのは、そのさらに3年前、世界史の教育実習生としておいでになった文学部の学生さんだった。なんで世界史で神谷美恵子なのかというと、「自省録」の翻訳者として教えてくださったのだけど、先生ご本人がお元気だったとして、そんな授業をなさったことは覚えておられるだろうか。

しかし一番肝心なことが思い出せない。1982年7月27日に、自分がなぜ仙台の町を歩いていたのか。本屋に入るぐらいだから一人で歩いていたのだろうが、何をしに行ったのだろう。

それはそうと、この「こころの旅」、実家に置いてきたのだろうか?ひょっとして、今も持っているのではないだろうか?と本棚を探してみると、あった。左は今年のカバー、右が1982年のカバー。

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