SSブログ

クラフト・エヴィング商會のおかしな展覧会 星を賣る店(3/23 世田谷文学館) [本と雑誌]

俳句会の大先輩が招待券を譲ってくださったので(ありがとうございます)、いそいそと芦花公園駅から世田谷文学館へ。いつ以来だろうか。
会場はかなりの人ごみだが、展示物の方はそんな大人数を想定していないので、独自の美学に沿って低目にしつらえられている。そのため、前に並んでいる人が動くまでじっと待って一品(?)ずつ見ていくことになる。これは疲れるが、致し方ない。
craft ebbing1.jpegcraft ebbing2.jpeg

クラフト・エヴィング商會のさまざまな作品や活動を実見すると、本が読者にもたらすものとして、文字に書かれた内容のみならず、文字自体のたたずまいや造本、さらにその周辺のさまざまな部分に負っている部分が多いことが今更ながらに納得される。ちょうど、対面の会話が、言葉そのものだけでなく、身ぶり手ぶりや顔つきなどのノンバーバル・コミュニケーションに多くを負っているのと同じだ。そう考えると、法令集のようなジャンルを除けば、電子書籍が紙の書籍の代替物となり得ないことは明らかだろう。

また、同商會が2005年以来一貫して手掛けてきた「ちくまプリマー新書」の装幀は、この新書全体のイメージを決定づけている。しかもそのイメージは、筑摩書房がねらいとする「若い人たちに最初に手に取ってもらいたい新書」(同社ウェブページによる)とよく合致しているように思われる。さらにいえば、例えば岩波新書は、「表題以外は同じ」でやってきているから、10メートル手前から見てもそこに岩波新書があるとわかるわけだが、「一冊ずつ違う装幀なのに、一見してちくまプリマー新書とわかる」のは、なかなかすごいことのように思われる。

家路についてから、会場で配付された「クラフト・エヴィング商會月下密造通信号外 ムーン・シャイナー」を読む。冒頭に掲げられた吉田篤弘さんの一文、特に「子どものころにも思い、」で始まる4段落目、異例に長いこの段落は、独語と呼びかけとが混在するような自在な語り口の内に、本と音楽について多くのことを言い得ているように思われる。数年前のインタビューで吉田さんは、最も影響を受けた本として向田邦子の『父の詫び状』を挙げ、「文章を書くことを志したきっかけともいえる作品です。」と述べているが、そのことも連想させる。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0