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なんでそうなるの [雑感]

航空管制官の管制ミスに関する刑事裁判の最高裁決定(最一小判平成22年10月26日・判例集未登載)を読んで暗然とする。

法律のあてはめについては素人なので,普通にあてはめるとそういう判決になるのかもしれないが,国交省の事故調査報告書を読んだ上で今回の決定文を再読すると,会社員の皮膚感覚として,この判決には以下の二つの点で疑問がある。

1.従業員の判断ミスに対する刑罰として,程度が適切なのか
2.処罰感情への迎合があるのではないか

まず1について。
従業員は一定の確率で判断ミスを犯す。気の利いた従業員ほど確率は低くなるが,それは程度の問題にすぎない。それをカバーするために,担当者同士の相互チェックや上司のチェック,さらには監査部門のチェックや会計監査人のチェック…といった対策が講じられているわけだけど,いずれにしてもゼロにはできない。
それに対する罰が重すぎると,業務上の権限に比べて責任が重すぎるということになるわけで,航空管制官や医者のなり手なんかいなくなってしまうのではないだろうか。

その点で特にむかつくのが宮川光治裁判官の補足意見の一節に見える
「本件は,そもそも,被告人両名が航空管制官として緊張感をもって,意識を集中して仕事をしていれば,起こり得なかった事態である。」
「そうした切迫した状況下では,管制官には,平時にもまして冷静沈着に,誤りなき指示を出すということが求められているというべきである。」
という表現である。
あのすみません,宮川裁判官は,執務時間中の一瞬たりとも意識の集中を欠いたことはないんでしょうか。もっとも,判決文書き間違えてもただちに人命には影響しないだろうけど。
この管制官たちが飲酒してたとか,2人でチェックしながらやるべきところ1人でやっちゃったとか,そういう重大な過失があるなら別だけど,普通に仕事していて,バックアップ要員(指導者)も含めて修正しきれなかったわけでしょ。それに,それなりの職業的訓練を受けていても,切迫した状況下ではむしろ判断力が低下するのが標準仕様だと思うんだけど。これって,実務を知らずに怒鳴っているバカな管理者の言い草と全然変わらないじゃないか。

次に2について。
なんともいやな感じなのが,この宮川裁判官の補足意見にも見える「(責任を問わないことが)現代社会における国民の常識に適うものであるとは考え難く」という一節である。何かといえば悪者探しをして,重罰を課さないと気が済まないという,社会全体に充満する処罰感情(なにも週刊誌の専売特許でなく,みんなの党なんか悪者探しに血道をあげることで政治生命を維持してるわけだけど)が気味悪いのだ。
 いや,その処罰感情の高まりが,住民全体の順法意識の高まりを反映しているというならまだ納得もするのだけど,国民年金未納率の問題を見てもわかるように,自分には優しく他人には厳罰を,という3歳児的な処罰感情にどこまで司法がつきあう必要があるのだろうか。国民全体は3歳児でも,被害者本人の感情は尊重されるべきでしょ,という指摘はわかるが,そういう場合の感情というのは,経験的にいえば,時として「自分の人生棒に振ってもいいから,とにかく報復したい」というようなものになりがちなのだ。それをどこまで積み上げても,あまり社会が前進するようには思えない。
 同様のことが,自分の情報は個人情報としてひたすら秘匿しながら,他人の給与明細とか役所の人件費とか政治家の資産とかに首を突っ込みたがる変な傾向についてもいえる。

 話を元に戻すと,刑事裁判なんで,過失を問えないとなる場合以外は一定の基準で罰をあてはめなきゃいけないという理屈はそうなのだけど,それでいくら重罰を課したって,被害者の溜飲は下がるかもしれないが全然問題の解決にはならないどころか,かえって当事者が黙秘していたほうがいいってことになるばかりなのに,なんでそういう方向へ進んでいかないのだろう。
そこまで考えてみると,どうも,

自分も含め,自分たちの属するこの集団は,年々劣化している

と考えざるを得ないのだが。
 かすかな救いなのが,櫻井龍子裁判官の少数意見で,すっと腑に落ちるものがある。また,その末尾で上告理由についての所論を「重要な問題提起」と捉えているが,これは巨大システムの運営や安全にかかわるすべての人々にとって,納得できる視点ではないだろうか。

(次の授業のレポートを書かねばならないので,これ以上この記事が書けないのが残念!)
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