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第146回深夜句会(7/9) [俳句]

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仙台の紅茶専門店「ガネーシャ」のおやつ。
なかなかリアル句会を復活させることができない。

(選句用紙から)

黒髪の母のその子の夏帽子

季題は「夏帽子」。「黒髪の」は、枕詞の「黒髪の」ではなく、髪の美称としての「黒髪」であろうか。
自分なら「母もその子も」とやってしまいそうだが、それだと説明になってしまうし、夏帽子に焦点が合わない。そうではなく、「母のその子の」としたことで、「母の夏帽子、その子の夏帽子」となって、一句の中心が夏帽子にきちんと落ち着く。なお、母のうしろをついて歩くこどもを思いうかべても鑑賞は成り立つのだけど、例えば、母が抱っこひも(エルゴベビーみたいな)で赤ちゃんをだっこしていて、その赤ちゃんも小さな夏帽子をかぶっていると想像すると、母の夏帽子と子の夏帽子の距離が近くなり、「母のその子の」が描こうとしている風景に近いのではないかと感じる。

救急車の赤きが光る梅雨の夜

季題「梅雨」。赤く光る救急車の赤色灯を詠んだ句は多くあると思うが、雨が降り、雲が低くたれこめている梅雨の夜に近づいてくる救急車の赤色灯は、厳寒の夜とか晩春の夜のそれとはまた異なった禍々しさを感じさせる。

調律の終はりしピアノ夏の雨

季題「夏の雨」。調律が終わって音が整えられたピアノから連想されやすいのは、秋や冬の澄んだ空気だと思うのだけど、この句はなぜ「夏の雨」なのだろう。もちろんそういう状況は実在するが、せっかくの調律が一発で狂ってしまう高音高湿の「夏の雨」と調律をどう結びつけて鑑賞すればよいのか…としばらく考えて思い出したのが、宮下奈都「羊と鋼の森」(2015、文藝春秋)に出てくるエピソードだ。古い小さな家にひとりで暮らす青年が、十五年ぶりに調律を依頼する。十五年前には家族で暮らしていて、親が調律を頼んだのだろうが、何らかの事情でいまはその家にひとり逼塞している青年は、誰かのためでなく、自分のためにピアノを弾いている。そうであっても、そこにはピアノを弾く歓びがあって、コンサートホールで弾かれる音楽と優劣があるわけではない、といったエピソード。これを念頭におくと、夏の雨が窓から見える、家庭のピアノ(コンサートホールの中からは、夏の雨が見えない)で、あらかじめ予定されていた調律がいま終わったところが想像される。

(句帳から)

この雲の上に花野のあるらしく
バビロンに至る街道夏の月

 
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