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「俳句編集ノート」(鈴木豊一,石榴舎,2011)を読む [俳句]

鈴木豊一さん(と書いてしまうとなんだか不遜な感じだが)には,いまから5年前の夏,逗子で1ヶ月にわたって開かれた「第二回日盛会」でお目にかかったことがあった。記録にあたってみるとそれは8月12日で,兼題は午前が「ははき木」,午後が「花火」となっている。

帯にもあるように「俳書,俳誌の編集四十余年の体験を綴る俳句礼賛の書」であり,楽しい話,ほっとするような温かい話もたくさん収められているけれども,虚子風にいえば「低唱」というのだろうか,単なる回顧とか披露ではなく,大声で言われているのではないが耳が痛いというか,静かに諭されているというのか,そういった趣のある一冊。

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備忘のため書き抜いておいた一節をいくつか。

断絶と省略への想像力を欠いた字面だけの読みは,散文の読み方である。自らの無知や怠惰を棚にあげて,句作も鑑賞も,散文の後塵を拝して事足れりとする風潮を石田波郷が厳しく糾弾したのは五十年も前のことだ。(p.99)

俳句の散文化は,句作および鑑賞の両面において,ますますその傾向をつよめているように思われる。散文的な俳句作品から余韻・余情が失われるのは当然だろう。そのことがまた,作品評価の基準をも低次元のものにしてはいないか。(中略)意味に安住する作品と,ことさら意味を峻拒した句意不明の作品と,ともに韻文の伝統からは遠ざかっている。韻文の髄としての俳句の醍醐味とは何か。その答えは,ひたすらな句作活動のなかにしかない。(p.132)

短歌が叙情的文芸であるに比して,俳句が即物具象的な文芸であることはくり返し説かれるところだ。玩物喪志という言葉もあるが,俳句はやはり即物的であることが本筋なのだ。今日の俳句の散文化も抽象化も,結局,物へのこらえ性のなさに発している。俳句の言語が象徴的・呪術的なもの的言語であり,反(半)陳述の言語であるという本号川崎寿彦氏の指摘は,俳句表現への新たな覚悟を促している。(p.157)

最初の「断絶と…」が書かれたのは2003年。ではその次の「俳句の散文化は…」と「短歌が…」が書かれたのはいつだと思われるだろうか。前者は1975年,後者は1976年(いずれも『俳句』の編集後記)の文章なのである。それからの三十何年間か,ここで提起された問題にきちんと向き合っていたならば,俳句の世界はずいぶんと違ったものになっていたような気がする。

もっと現実的な自戒のためにいえば,読み手として俳句に接するについての基本姿勢は,句評にはじまり句評に終わるということがあるわけだけれども,その肝心な句評について,自分のダメなところは,一句を「散文的に」読み,なんとなく目に付いた材料で事足れりとしてしまって,そこに書かれていないこと,たとえば句がどこかで切れているのではないかとか,この句にあえて書かれていないことは何かとか,そういう「ひたすらな読み」が足りないことなのだと思う。いやむろん,他にもダメ出しされるべき点は多いだろうけれども。そんなわけで来年は,いいかげんに10句を読むより,丹念に1句を読むというように,もう少し「ちゃんと」俳句を読む年にしたい。





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