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「若手作家に聞くみずからの「場」」を読んで [俳句]

若い友人からご恵贈いただいた俳誌記事「若手作家に聞くみずからの「場」」を読む(『鷹』7月号)。
6人の作者が、どのように俳句にかかわっているかを書いているのだが、その見事なまでのバラバラぶりが面白い。このバラバラというか温度差は、何に由来するのだろう?としばらく考えてみた。

おそらく、この差異のおおもとは

1.理屈抜きに俳句が好きか?
2.句会という場を必要と感じているか?

の2点ではないかと思う。

まず1点目。
人生の残り時間が限られている場合は別だが、特に若い方の場合、本当に好きなことについては寝食を忘れるぐらい没頭するのがお勧めなんじゃないだろうか。
『福翁自伝』に出てくる適塾時代の福沢諭吉や塾生たちにしたって、それが自分の出世のためとか経済的利益のためとかではなく、ただもうそれが楽しいから毎日無茶勉をしていたわけで。スティーブ・ジョブスも、スタンフォード大学でのスピーチで「将来役に立つことだけを、あらかじめうまく選んで身につけるなんてことはできない…いま関心のあることに、手当たり次第没頭していると、その中のあるものが将来役に立つ、それもしばしば、思わぬ形で役に立つ」という趣旨のことを述べている。

俳句もそれと同じで、四六時中が無理なら通勤電車の中でも、合宿のときだけでも、とにかく俳句漬けになって苦しいながらもそれが楽しくてしょうがない、という感じがあるのかどうか。俳句を詠むのに、それが何の役に立つとか立たないとか、損とか得とか、計算が透けて見えると非常に見苦しいし、そういう計算って結局、時代が変わると何も役に立たない。そういう損得勘定を超えて俳句が好きかどうか―極論すれば、人に笑われようが俳句を詠みたいか―その辺の違いが温度差になっているような。

実は同じことが、文芸や学問以外にもあてはまる。ワインが好きなら三度の飯よりワインが好きで、鼻の頭が赤くなるぐらいワイン浸りになったころ、ようやくジンファンデルがどうとかフルーリーの村がどうとかいう言葉がもっともらしくなってくる。それは、聞いている側が「あれだけ好きなら、まあしょうがないよね」と思うからなのだが。アクセサリーとしてのワイン道楽なんてのは大概にしたほうがいい。

だから、どのような俳句をよしとするかにかかわらず、俳句を詠むことに対して妙にクールな感じで斜に構えるのではなく、思いのたけを述べてほしいなあ。

2点目は、句会について。
俳句に特有の場である「句会」をどう考えるかということなんだが、これが結社論とニアリーイコールというか、表裏の関係にある。結社が提供する機能として重要なものは、句会や吟行会の機会を提供することだと思っている(もっとも、結社によっては句会がほとんど機能していないところもあるようだが)。そして、句会に臨めば主宰の句評を聞くだけでなく、自分も選句(互選)に加わり、時には句評のひとつもしてみる、それが楽しいのではないの?

句会が俳句の歴史とともにあったことは措くとして、もっと現実的に、句会の機能は「誰の作品であろうと、それを選別する」ことにある。散文にも同人雑誌の合評会のようなものはあるが、句会の場合、詠み手が誰であれ(つまり、主宰であれ著名なゲストであれ)、句会で一票も入らなかった作品は闇の中へ消えて行ってしまう。これってすごいことだと思うのだけど。もちろん自分の句だって、容赦なく選別されるわけで、その選別され具合が実に面白い(自分の自信の度合いと一致しない)。これだけのユニークな役割がある「句会」という場が、それでも面白くないというなら、主観の問題とはいえずいぶんもったいないことだと思うのだが。
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