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試験に出ない世界史 [雑感]

漉橋山宗さんのブログで“いじめ”についての所感を読んで,ふと思うところがあった。

むろん,教育の話ってのは,国語国字問題とかと同じで,百人いれば百通りの意見があるから,いうだけ詮無きことなのかもしれないが,「いじめ」とか「世界史すっ飛ばし」とか「教育問題の政治化」とかは,みな一本の糸でつながっているのではないかと。

1.子は親の鏡といわれるとおり,子供の世界観は親のそれを忠実に反映している。だから,もしいじめがかつて以上に蔓延しているのだとすれば,それは,いじめを「やむをえないもの」あるいは「好ましいもの」と考える弱肉強食的世界観を持つ親が増えているということだ。

2.そうした弱肉強食的世界観(勝てば官軍的世界観といってもいい)が大人のあいだに急速に蔓延していることは,この10年ぐらい社会人を経験してきた者なら肌で感じられると思う。それはいうまでもなく,規制緩和の掛け声とともに自由競争が推奨され,不況下に過当競争状態がつくりだされたことによるものだ。

苛烈な生き残り競争はコスト削減競争と化し,外注化やパート化,工場の海外移転による人件費の削減,企業合併による組織の巨大化と間接部門の排除,成果主義と称する短期的パフォーマンス追求等々の弊害をもたらしてきた。そして,みんな横並びだった社会人を勝ち組と負け組にふるいわける風潮がはびこるようになった。どんな会社でも大多数を占めている「普通のオトナ」の居場所は,この10年でどんどん狭くなっていった。こうした状況下で,弱肉強食的な世界観が蔓延するのは,ある種当然ではないだろうか。

それを助長するように,週刊誌には「誰かがいい思いをしてる」という記事や,誰かを悪者にして「何もかもこいつが悪い」といった記事ばかりが横行している。これらは社会正義の追求などではなく,嫉妬や憎悪をあおっているにすぎない。「自分以外はみな敵」になってしまうのだ。

3.こうした弱肉強食的世界観を掘り下げていくと,ゼロサム的な経済状況だけでなく,ふたたび学校教育の変質が浮かび上がってくる。
具体的にいえば,一般教養的なものを排除して「役に立つ」教育に傾斜してきたこととか,知るという行為自体を尊ぶ気風がなくなってしまったことが影響しているのではないだろうか。

今回の「世界史すっとばし問題」はその象徴だ。「受験に関係ないことは知らなくていい(教えなくていい)」というのは,一瞬そんな気もするが,実は非常に深刻な問題だ。学校が予備校と同じ論理に立つなら,学校はいらなくなってしまう。「受験に関係あろうとなかろうと(あるいは,一見何かの役に立ちそうもなくても),大事なことを教える」ことに学校の存在意義があるのではないか。それなのに,「受験の役に立たないことは,やらなくてもいい」と学校自身が認めてしまったことに,今回の事件の深刻さがあるのだ。自殺行為。

そして,「受験に関係ない大事なこと」の代表例が,世界史なのだ。
世界史は,知識を植えつける科目ではなく,「自分の立ち位置(時間的な立ち位置,あるいは場所的な立ち位置)を相対化して考える」科目だ。
小学校にあがって間もない頃だったか,色鉛筆の缶に「近世のヨーロッパ人がつくった世界地図」が印刷されていて,その右端に日本があるのを見たときの「ほぉーっ」という感覚は,今でも覚えている。後年"Far East"ということばを耳にしたときも,同様に感じたものだ。

「自分の知らないことは,どうでもいい」と考えるか「自分の知らない多くのことが,自分の存在に深くかかわっている(自分の知らないたくさんのものごとの一角に,自分もまた存在する)」と考えるかで,その人のふるまい方が全く違ってくることは容易に想像できる。
前者にとって,世界はハリウッド映画的な善悪二元論(白か黒か)の舞台である。味方でなければ敵であり,知らないもの=異物は排除するしかない。天動説。
後者にとって,世界は多様な文化(緑,紫,青,黄色…)が共存する場所であり,可能なかぎりそれらが共存するなかで自分の場所をみつけることが目標になる。

自分についていえば,世界史を習わなかったら,おそらくバックパッカーにはならなかった。世界が多様であるということが受け入れられなければ,海外へ行っても面白いわけがない。バックパッカーにならなくても命に別状はない。だが,文化的遺伝子の多様性が保たれないと,何らかの波に襲われたときに集団が全滅することになりかねない。

高校では「受験に関係ない」世界史や音楽は一切教わらず,大学では「社会で役に立たない」一般教養を一切教わらない,そんな人間が入社してきたら,会話が通じなくて困るだろう。また実務上も,幅が狭くて状況変化への対応力がないから,たぶん使えないだろう。

4.教員の質がいいとか悪いとかいうことは,「自分の知らないことを知りたい」と思えるかどうかにくらべれば,どうでもいいことにすぎない。幕末に,適塾をはじめとする洋学塾がすぐれた成果をあげたのは,教員の質が優れていたからというより,「自分の知らないことを知りたい」という思いに燃える集団だったからである。

だから,教育問題を政治のおもちゃにするのはやめておいたほうがいい。現在の「学校と親の力関係」では,親がいじめを推奨あるいは黙認しているような状況を教員が阻止するのは不可能だから,いじめ問題を教員のせいにしても無意味だ。どんなに「優れた」教育者を学校に配置しても,いま学校がおかれている身もふたもない現実を何とかしないかぎり,何の解決にもならないだろう。

参考 内田樹氏のブログ
http://blog.tatsuru.com/archives/001970.php


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