SSブログ

偶会(5/23) [俳句]

ささやかな偶会。
雨の休日,学校は休んで多治見へ吟行。

焼きものの町という印象しかなかったが,初めて多治見駅で下車してみると,渓流沿いにある臨済宗の禅寺永保寺には築700年になろうかという観音堂と開山堂が静かにたたずみ,庭には見たこともないほどの大銀杏がそびえる。
道路がお寺よりずっと高いところを通っているので参道を登って道路に戻り,尾根伝いに歩くと今度は多治見修道院。創立80年になるそうだが,葡萄園の奥まったところに修道士と神学生の墓地があり,さまざまな名前の墓標が連なっている。なかには二十歳そこそこで亡くなった神学生もいる。

教会に入れていただくと,ちょうどアジア系の顔立ちをした人々がたくさん集まり,英語のミサが始まるところ。聞いてみると,可児のほうからバスで来たとか。何かそういう出稼ぎ村のようなところがあるのだろうか。うたわれる歌が,日本のカトリックのミサでうたわれるものと全くことなり,何かポップスのように聞こえるのが不思議。英語がまったく聴き取れないことに愕然とする。

(選句用紙から)
梅雨寒や修道院の固き椅子

たくさんの修道院を知っているわけではないが,イメージ的には(そして,きょう見た修道院も)椅子は木のベンチで,ゆったりくつろげるようなものではない(くつろぐ場所でないので当然だが)。また回りを見渡しても,ゆっくり座れるような場所があるわけではない。だから「固き椅子」はある意味当たり前なのだが,梅雨寒との距離は近い。人によってはつきすぎと感じられるかもしれないが,目の前で見ている限り,これは「あり」だと思う。

寺務所の夏炉の上の大薬缶
「しゃむしょ」でなく「じむしょ」。でもそれだと音が合わないので「てらむしょ」と読ませることになる。どのようないきさつで夏炉が存在するのか謎だが,夏でも火を焚かなければならないような,深山幽谷の寺院なのであろう。そしてその夏炉には,あたかもお約束のように,味も素っ気もない,べこべこになった薬缶がかかっている。

水滴の先にとどまる若葉かな
普通に考えたら,若葉の先に水滴がとどまっているはずだ。
それが水滴の先に若葉がとどまっているというのは,水滴に若葉が映り込んでいるのだろうか。いやそうじゃなく,水滴の,で軽く切れて,先にとどまる若葉かな,と読むのか。つまり,水滴を葉先にとどめている,そんな若葉であることよ,という句意なのか?さまざまに読めてしまうのだが,それでも素直で「普通のことを普通にいう」という考え方に合致しているので一票。

(句帳から)
大池と小池とありて若楓
樫若葉修道院へ続く道
雛罌栗に神学生の墓標かな



nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 1

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0