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第182回深夜句会(7/20) [俳句]

(選句用紙から)

夕暮れて茅の輪くぐりの親子来る

季題「茅の輪」で夏(七月)。この句の巧みなところは、社の前の茅の輪に来る人はそれほど多くないことが読み手にわかるところ。参拝者がひきもきらない大きな神社だったら、こういう句にはならないわけで、人もまばらな中、夕暮れになってからやってきた親子連れに「おや?」と感じたというところ。
また、これが深夜だと、ホラー映画になってしまうので、「夕暮れて」もよく効いている。津村記久子さんの「まぬけなこよみ」(平凡社、2017)に「狭い、けれどもちょうどいい大きさの境内」という表現があるが(p.32)、それがあてはまる夏の夕暮れの風景として共感できる。


炭鉱節のテープかすれて盆踊り

季題「盆踊」で夏。一読「テープなの?」と思うわけだが、これはテープなんだと思う。カセットテープがラジカセか何かに入っていて、年に1回、盆踊りのときしか使わない町内会の備品だったりするのでは。なので、あまり商業的に洗練されていない、小規模で素朴な盆踊りなのだろう。

(句帳から)

夏蓬歩道半分まで隠れ
送り火を一・二・三とまたぎけり
泥と埃と土にまみれて花南瓜
夏柳色濃し落とす影も濃し
今脱いだばかりのシャツを夜濯に
青柚子の頑ななまで深緑
溝萩や生まれつき色あせてゐて

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奥山淳志『庭とエスキース』(みすず書房、2019) [本と雑誌]

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俳人にはたいていのものが俳句的に見えるから、本を読んだそばから「俳句的だ」と書いても意味がないのかもしれないが、ここに書かれていることは、全部が俳句のように思える。著者にも弁造さんにもそんな意図はまったくないのだろうが、読んでいる方にとっては「眼前のものみな俳句」である。北国の厳しい冬の暮らしと、極度に内省的な二人のやりとりが、それを強く感じさせるのかもしれないが。


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第181回深夜句会(6/22) [俳句]

雨が降ったりやんだり。昼間は暑かったのに、夜になって気温が急降下。こんな日に限って、羽織るものをもっていない。

(選句用紙から)

明易や洗濯物に扇風機

季題「明易」で夏。雨が降っていて、部屋干しなのでしょう。帰宅してから選択したのか、それとも朝から乾かしているけどまだ乾かないのか、いずれにしてもその洗濯物に夜通し扇風機をあてて乾かそうとしているけど、さて外が明るくなってきて、乾いたのか乾いてないのか…これは梅雨のころでないと詠めない一句。

町川の橋の小さきをさみだるる

さみだれと川、といえば蕪村の句が出てくるのだけど、あれは大河。この句はそれとは逆に、街中の小さな川にかかった橋、それもどうかすると暗渠にされてしまいそうな小さな川の句で、その小さな橋の上を歩く人にも、わずかな川面にも、さみだれが降り注いでいる。

(句帳から)

幾重にも青葉重なり合ふ欅
夜涼みとおぼし街頭喫煙所
夏の夜の街灯ずつと連なれる
アーケード駅前通り夜涼かな
庭だつた場所にアパート柿若葉
海風の通り道ある夜涼かな
街薄暑辞書持ち歩くことに倦み

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目黒考二さんを悼む(『本の雑誌』2023年5月号) [本と雑誌]

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1月に亡くなった目黒考二さんの追悼号。自分にとっては目黒さんあっての「本の雑誌」だったので、これからどうなるのか心配だが、ともかく読書という営みを通じて数多くの人とつながっていた方だけあって、弔詞を寄稿されている数々の名前も、さながら目黒山脈とでもいうべき壮観になっている。

しかしそれらのどれよりも、本の雑誌者でいっしょに働いていた(かつては会社の一室に住んでいたわけだから、文字通りいっしょに働いていたわけだけど)人びとのことばが最も印象に残る。いずれも個人的な場所からの、個人的なことばであって、定型文でなくざらざらしているので、それが訴える力になっている(定型文がいけないというのではない。定型文は身を守る盾として有効。ただそれ以上のものが定型文から得られるわけではないというだけ)。たとえば杉江由次さんが書かれた「本の雑誌社『その日』までの記録」の一節(31頁)。
(以下引用)
----------------------------
本屋さんに行くたびに、もうここにある本を目黒さんは読めないのか、そもそも目黒さんはもう本屋さんに行けないのかと苦しくなる。生まれて初めて本屋さんに行くのがつらい。
----------------------------
(以上引用終わり)
これ以上切実な哀悼の言葉があるだろうか。
また、つけ足すとすれば、1つ前の4月号に鏡明さんが書かれていた思い出で、その淡々とした筆致もさることながら、これも鏡さんのふだんの言葉で綴られている分、そうだなあと思わせるものがあった。


(4.25追記)
宇野重規さんがtwitterで、この5月号について書かれている。全文引用してしまうと引用の要件を満たさないことになってしまうが、書かれていることがすばらしいので、おとがめは覚悟であえて引用すると、
(以下引用開始)
-------------------
ようやく『本の雑誌』を入手。この雑誌を創刊した目黒考二さんの追悼号。本を読むことだけが生きがいの変な(変でもないけど)青年が、そういう若者を育てる立場になる。大江健三郎、坂本龍一の死もショックだけど、この人が亡くなったのも、喪失感があるなあ。
--------------------
(以上引用終わり)
宇野さんほど多くの本を書かれ、多くの人を教えてこられた方でも、こういうふうに思われるのですね。そうであれば、私が同じように思うのはちっともおかしくないことになる。

(5.16追記)
それにしても、表紙の「酒と家庭は読書の敵だ!」という煽り文句が笑えるというか笑えないというか、ご本人の口癖だったそうだけど。
自分に読書の楽しみを教えてくれたひとびとの多くは、もう亡くなってしまったか、少なくとも本について話すことはできなくなってしまった。で、自分はそのバトンを次の世代に渡すことができているのかと少し自問する。

(7.10追記)
「旅行人編集長のーと」に蔵前仁一さんがこの号について書かれている。蔵前さんほどの書き手でも、目黒考二(北上次郎)に褒められたことで「僕も目黒さんや椎名さんに褒めてもらったおかげで、物書きとしてやっていけるかもしれないと自信がついた。」と思っているのですね。ちょっと意外。

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第180回深夜句会(5/11) [俳句]

午後からライフいや雷雨。落雷で電車が止まったりもしていたらしい。

(選句用紙から)

はりゑんじゆ闌けたる島に住む人なし

季題「はりえんじゅ(針槐)」で夏。白い花を咲かせる高木。ニセアカシア。
明治時代に日本に持ち込まれた植物なので、大昔から島に自生していたのではなく、かつてこの島で暮らしていた人々が何かを願って植えたのだろう。その針槐が何十年もして大木になって白い花をいっぱいつけているのだけど、島にはもう住む人がいなくなっている。庭先に植えられた小さな木ではなく、街路樹とかグランドの縁に植えられた姿が想像され、また、下五の意図的な字余りが加わって、その「不在」ぶりが際立っている。

鯉幟寺町近く工場町

工場町(こうばまち)だけではどんな場所なのか絞りきれず、そこが残念。たとえば「寺町」「紺屋町」「細工町」などはそれだけでどんな場所かをおおむね言い得てるのだけど、「工場町」だと何の工場(こうば)なのか、記憶のファイルから具体的な映像を抜き出すのがちょっと大変。
いずれにせよ、鋳物師(いもじ)町、とか鍛冶(かじ)町、とかそんな町工場的な一帯の軒先か庭先に
鯉のぼりが翻っている。そこに住みながら働いている、長い歴史のある町の鯉幟。

蜂一つ分の名残りや藤揺るる

季題「藤の花」で夏。蜂も夏の季題だが、揺れている藤の花の方を詠んでいるもののように読んだ。下向きに咲いている藤の花に上向きにとまっていた蜂が飛び去って、その反動で揺れているのだろう。「蜂一つ分の名残り」が抒情的。

(句帳から)

三階の窓から欅若葉かな
屋上のプレハブ小屋の春深し
雉鳩の声とほざかる昼寝かな
山荒れて好き放題に藤の花
できるかなできるかなけふ若葉風
母も子も父も五月の雨の中
終点に気動車二両山笑ふ
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戴冠式の音楽 [音楽]

BBC(CS)で視聴。
イギリスの戴冠式を見るのは初めてだし、次の戴冠式が見られるかは微妙こらこらこらだが、式典終盤の国歌の前のファンファーレが、記録映画や映画で知っている1953年の戴冠式のそれと全く同じ。映画「チャーリング・クロス街84番地」(1987アメリカ、デヴィッド・ジョーンズ監督)では、テレビで視聴していたフランク一家がここで(テレビの前で)起立するのでしたね。

しかしあの、仏教界やイスラム教界やシーク教界から代表を呼んでくるところとか、ゴスペルを使うところとかに、チャールズ3世らしさが表れているのでしょうね。BBCが配信している式次第を読むと、それこそビザンチンの御詠歌やヘンデルから、1953年の戴冠式にあてて作られた音楽まで、いろいろなものが取り入れられていて、いい感じ。

 
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児玉聡「オックスフォード哲学者奇行」(明石書店、2022) [本と雑誌]

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何の面識もない過去の哲学者たちの風変りな言動に、どうしてこんなにワクワクするのだろう。単にワクワクするのみならず、もしこうした哲学者たちのチュートリアルを受けたとしたら、おそらく3秒で粉砕されるだろうけど、自分の学生生活はもっと違ったものになったのではないか(いや、古文書室で過ごした2年間も自分にとっては限界までやり切ったとは思うし、もっと何かできたはずなどと考えるのは不遜なのだが)と考えると、ワクワクを超えてゾクゾクするものがある。

ちょっと目を惹かれたのは、その黄金時代?に、日本からの留学生が1人いたという事実。それも、アンスコムにチュートリアルを受けていたというのだから只事ではない。この方は、帰国後にどうされているのだろうか…と調べてみたら、ライプニッツ研究の第一人者として、慶応義塾でも教えておられたのですね。

あとがきのそのまた最後に、先日読んだばかりの「マルクス・アウレリウス」の著者南川高志先生の名前が出てきてびっくり。考えてみれば京大文学部つながりなので当然なのだけど。

ところで、奇行種って何?




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第179回深夜句会(4/13) [俳句]

177回は急用で欠席、178回はこれまた急用で投句だけして早退したので、3か月ぶりの深夜句会。

(選句用紙から)

待ちぼうけの駅に菜の花揺れ遊ぶ

携帯電話のない時代、「待ちぼうけ」はときどき起こる事故のようなもので、そのために駅には伝言板が置かれたりしていたのだけど、その駅というのが都会のターミナル駅ではなく、菜の花が咲いているような場所にあるという。そうした場所に住んでいる人の話なのか、あるいはそうした場所を訪ねたあとで駅での待ち合わせがうまくいかなかったのか定かでないが、それにもかかわらず、菜の花は何もなかったかのように揺れ「遊んで」いる。春うらら。

ぽつかりと青空のあり春疾風

ぽっかりと、に議論があるかもしれないが、春の嵐で雲が飛び去っていくさなかに、ふと雲の隙間に青空が覗く、その青空が、冬の空でもなく夏の空でもない、春の色をした青空だ、という句。嵐そのものの様子というより、その嵐の途切れたところに見えている春の空を詠んでいるところが面白いと思う。

チューリップ雨の軽さに傾ぎけり

雨の重さに、でなく「軽さに」傾ぐという表現が狙ったものと思うが、しかし眼前の事実でもあって、そこがこの句の手柄なのだと思う。くどく説明すれば「降っているのは春の細かい軽い雨であって、たたきつけるような降り方ではないのだけど、その軽さにもかかわらず傾いだ」ということなのだろうけど、俳句なので説明は不要。

寛いで家のやうなる花筵

花筵がわが家のよう、という感じが面白い。ちょっとよその花筵に出かけてお相伴に預かって、でもまた戻ってくる。花筵に何人かの、気の置けない仲間か家族がいることが読み取れる。また、「家のやうなる」で相対化されていることから、広い公園のような場所であって、ほかにもたくさんの花筵が広がっている感じか。

(句帳から)

レモン色のデイジー心昏き日も
花蘇芳三代続く診療所
公園のここな小道の濃山吹
山吹の山吹色の開花かな
諸葛菜東中野に至る土手
花蘇芳日ごとその色褪せてゆく
町宿の奥の暗がり春深し


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南川高志「マルクス・アウレリウス 『自省録』のローマ帝国」(岩波新書、2022) [本と雑誌]

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「自省録」ファンにはいろいろなタイプがあるのだろうけど、歴史好きから「自省録」にアプローチしてきたファンは、当然にローマ時代についての知識の上で「自省録」するのだと思う。だが、そうした前提を欠いた、つまり歴史の知識も哲学の知識も欠いた、自分のような唐突な「自省録」ファンは、エピクテートスやセネカとの共通点や相違点を意識することはあっても、この思想が編まれたローマ時代がどのような時代であったかをあまり意識することがない。そこを埋めてくれたのが本書。

プロローグでこれまでのマルクス・アウレリウス研究について紹介する中で、ご存じ神谷美恵子訳『自省録』に言及されていて、
(以下引用)
「神谷訳は、ギリシア哲学を専門としない方の作品であるが、日本で初めてのギリシア語原典からの訳である。今日ではそのギリシア語の解釈や哲学用語の取り扱いに意見があるのを私は承知しているが、『自省録』の神谷訳を読んだことがローマ帝国史研究を始めるきっかけとなったので、本書でも神谷訳に拠りながら語りたい。(p.7)
(以上引用終わり)
とある。ここにも1人、神谷訳「自省録」で人生が変わった人がいるわけですね(って、変わったどころかそれを職業にされているのだから、自分とは比較にならないけど)。

 


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第176回深夜句会(1/19) [俳句]

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寒い。不在投句がいっぱい。

(選句用紙から)

この川を渡りて仕事はじめかな

勤め人の心をわしづかみにする一句(笑)。「この川を渡りて」という、半ば冗談ではないかと思うほどの大きな振りかぶり方が愉快。この心境はどのようにでも鑑賞でき、仕事はいやだけど職場も近いのでしょうがないから頑張ろうともとれるし、大きな川を渡って新たな気持で晴れ晴れと仕事に臨む、ともとれる。大昔の演歌で、この坂を登れば...という歌があったような気がするのだけど、その存在が、鑑賞に影響を与えているのかもしれない。
楽屋落ちみたいなことを書くのはいけないのだけど、こういう句を詠みそうもない人が詠んでいるのがなんともいえず楽しい。


歳末や母の馴染みの店に買ふ

季題は「歳末」。年末なので、おせち料理の食材を乾物屋に買いに行く、とかお年賀を菓子屋に買いに行く、といった風景が想像されるが、かつては母に連れられて足を運んだその店に、今は自分が同じように訪ねている。小さなドラマというか、過ぎ去った歳月がそこにある。店がかつてと同じように営業していることも重要なポイント。それなりに歴史のある、落ち着いた商店街なのだろう。また、店の種類として、毎日行くような店ではないことも大事。行くたびに母を思い出す、母恋の句。
年があければ、また一つ歳をとる、ということを下敷きにして読むと、いっそうしみじみとした興趣が感じられる。「店に買ふ」がちょっと窮屈なのでは。買ひ、としてもよいか。



冬の池河骨あをき一ト所

河骨の花は夏の季題だが、いまは真冬。あたり一面が黒や茶色や灰色の風景の中、河骨もまた水上の部分は枯れてしまい、水中だけが緑色を残している、そのわずかな緑色が、モノクロームの風景にそこだけ着色したように目立たしい。

(句帳から)

A4の門松畳み古紙袋
身を縮めつつしたたかに冬芽かな

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第175回深夜句会(12/8) [俳句]

今年最後の深夜句会。このぐらいの人数が一番楽しい。

(選句用紙から)

高速道の下に棲みつき花八手

季題「八手の花」で冬。目立たないところに植えられていることの多い八手だが、その八手の花がどこかから歩いてきて高速道路の下に住み着いたような、奇妙な面白さがある。別解として、高速道路の下に人が住み着いているのだと鑑賞することもできるが、それだと、そこで切れて花八手が宙に浮いてしまうので。


冬支度菰ぐるぐる巻きの蘇鉄

菰「ぐるぐる巻き」という平俗な表現が効果をあげている。また、南国の植物であるソテツに菰を巻くことに面白さがあるのだけど、その蘇鉄のある場所が南国ではなく、冬にはそこそこ寒くなる場所だということがわかる。わたり句にしてわざとリズムを崩しているところが上手。


馴染みなき客にも渡す新暦

季題「新暦」で冬。自分はその店の常連で、すでに店主から来年の暦をもらっている。店主と話しているうちに、知らない客がやってきた。店主とその客のやりとりから、この客は初めての客と知れたが、店主はその客にも、来年もよろしくと声をかけて来年の暦を渡している。そのやりとりが見えるぐらいの小さな店(飲み屋でも本屋でもいいが、まあそこそこ滞在時間のあるお店であろう)が、自分にとってのサードプレイスになっていることがわかる。サードプレイスは大事。


(句帳から)

山茶花や薄紅に控へ目に


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普及の名作 [雑感]

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某アウトドアブランドのメールマガジンの配信登録をしているのだけど、某日配信されたタイトルを見てゲッとのけぞった。

普及の名作「〇〇〇〇」の新モデル

ふ、普及の名作??
それも本文ではなくタイトルですよ。
そして、もっと驚いたことに、一日経っても訂正のメールが来ない。

このメールマガジンの購読者が何千人あるいは何万人いるのかわからないけど、配信元の担当者は当然この誤変換に気づいたと思われ(これが正しい用字だと思い込んでいたら軽くホラーだ)、しかしこの程度の誤字なら訂正(さしかえ)をする必要がないと考えたと想像すると、何だか暗い気持になる。写真にかけるお金はあるけど、校正(というほどのことですらないが)にかけるお金はないということだろうか。せめて同僚どうしでチェックすればいいと思うのだけど。

まあそれ以前に、自社の製品を「不朽の名作」と形容するか、という問題があるのだけど。「不動のロングセラー」ぐらいにしておけばいいのに。


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第174回深夜句会(11/10) [俳句]

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(選句用紙から)

黄葉して国道チェーン着脱所

国道沿いの景色で、それが黄葉しているという句はいくらでもあると思うけど、その国道にチェーン着脱所があるとしたら、にわかに場所が特定される。山の麓とか、雪国で高速道路を下りたところとか、まあそんなところだろう。いまはまだ車がいない、がらんとして広大な着脱所だが、黄葉から程なくして雪が降りしきり、多くの車が入れ替わりにやってくるようになる。詠み手はこれからやってくる冬を思い、隠れた季題は「冬近し」なのだろう。


幼稚園バス待つ母ら鰯雲

鰯雲は、これから天気が崩れることの直接的な表現なのだろうか、藤田湘子流の、思わせぶりな何か(句意を一度切って、関係ない季題として鰯雲が出てくるというあれ)なのだろうか。
それはどちらでもいいのだけど、「ら」がどうにも…


けふ最後の光集めて芒立つ

今日最後の何々、という言い方はよくあるけど、その対象が芒であるところに、秋の夕方の光線というか日の当たり具合をわかりやすく表せているのでは。


(句帳から)

数日で更地となりぬ冬隣
ぎうぎうに押し合ひながら枇杷の花

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2022年 第1回かんさいエクストリームウォーク100 参加の記録 [ウォーキング]

ぼんやりしているうちに「びわ100」が満員になってしまい、残念…と思っていたところ、姫路から大阪まで歩く大会がある(初開催)という。コースの大半が幹線道路なのが残念だが、他に同様の大会がないので申し込む。

10月17日(月)
ドキドキしながら週間予報を見ると、まずまずの天気、かつ朝の最低気温も14度から18度と極楽。これなら装備はかなり軽くできそう。コース上に無数のコンビニがあるはずなので、今回は食べ物を一切携行しないことにする。飲み物だけはソフトフラスクを持参して常時補給をめざす。

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10月21日(金)
新快速で姫路まで移動。姫路の駅で下りるのは40年ぶりぐらいだろうか。北口も南口もまったく記憶がないが、駅も駅前も新しいビルになってしまっているので、たとえ記憶があったとしても一致しないだろうと思われる。駅ビルで大盛パスタをいただき、早めに就寝。

10月22日(土)
雲が多いが上天気。気温高い。
駅からスタート地点へ向かう途中、すでに歩いている先発組(出発順にA組~D組)の参加者の列とすれちがう。他の大会よりも若い人やカップルが多い印象。これから出発するわれらE組は100人ぐらいしかいない(推定)ので、広場の芝生はのんびりした雰囲気。

9時33分にスタート。いきなり信号待ち。100キロメートルのあいだに何回信号待ちをくらうのかと思うと気分が暗くなる。信号の先で、いつもびわ100でお目にかかる、「全員完歩」の幟を立てた応援の方が手を振ってくださる。どこからおいでになるのだろうか。犬も元気そう。市街地を歩くのだけど、前後の参加者の会話がにぎやかで、女性2人組のボルテージが特に高い。このあたりが関西なのか。

きょうは暑い。10キロすぎでソフトフラスクが空になり、第1CP手前でコンビニに駆け込んで補充。歩きながら充填するのが上手になってきた(何の役にも立たない技量)。ついでにゼリーを2つ。冷たい食感が心地よい。

第1CP(18キロ):チョコ&クリームパンをありがたくいただき、食べながらすぐ出発。境内にはAからD各組の参加者がおおぜい休憩中。道路に戻ったところで山と道のMINIを背負っている参加者を見かける。ちなみにショートパンツも山と道のLight 5-Pocket Shortsだったので、山と道ファンなのだろうか。

東二見(27.2キロ):ついに海岸線に出る。さっきから曇り空なのでまぶしさは感じない。眺めがよく平坦なだけでなく、信号がないのでとても歩きやすい。こんなところだけを100キロ歩けたら理想だけど。

第2CP(40キロ):明石公園のカフェでトマトカレーをいただく。油脂が少なく酸味があるので、歩行中の人間にとっては食べやすくかつおいしい。日没のころ再スタート。

スタバ(43.9キロ):ガソリンを補給。さいわい誰も並んでいないので最小限のタイムロスで済む。

舞子公園(45.7キロ):明石大橋の真下。構造物が巨大すぎて、まったく実感が湧かない。それにしてもすごい人出で、広場では大道芸のようなことをやっている。ここに集っている人にとっては、大会参加者は奇妙な闖入者に見えることだろう。

塩屋駅(50.2キロ):全行程の半分に達したとたん、心の中でカウントダウンが始まる。あと49キロ、あと48キロ…と数字が減ることだけが楽しみになる。

須磨駅(53.9キロ):かつて六甲全縦の前日に駅前の旅館に滞在して、駅前のベーカリーショップでおいしいホットドッグを食べたけど、店の名前が思い出せないなあ…と思いながら歩いていると、国道がJRをまたぐ地点で、なんと踏切に誘導される。複々線の踏切!!休日とはいえ、なかなか遮断機が開かない(平日のこの時間ならもっと大変だったはず…)。初めから「5分後」とか「10分後」とわかっていれば大したことないのだけど、いつ開くかわからずに待つのはとてもつらい。

CP3(63.7キロ):いろいろなおかずパンがあるのだけど、どれをいただけばよいか決められない(判断力が低下している)。ようやくカレーパンをいただき、熱いみそ汁といっしょに味わう。ソックスを交換し、あと36キロあまり…

三宮東交差点(64.8キロ):LEDのランタンをポールに提げて歩いている参加者がいて、これはスマートと感心する。市街地の国道(の歩道)を歩いているからヘッドランプや懐中電灯で足元を照らす必要はなく、むしろランタンのようなあかりで自動車に存在を知らせる方が重要なわけで、気が利いた選択だなと思う。
第3CP以降、歩いても歩いてもすぐ信号で止められてしまい、全然ペースが上がらない。うんざりする。

阪神西灘駅前(67.9キロ):券売機にも改札にも人がいないが、時刻はちょうど23時半、おそらく終電ギリギリの時間だろう。電車に乗れば梅田まで帰れるか…と考える。その先も駅で下りた人がときどき歩いてきて、きょうは平和な土曜日の夜であることが思い出される。あと三分の一。


東灘区役所(72.2キロ):赤信号で立ったまま待つことがつらくなってきた。花壇のへりでも何でもいいので座ることにする。足腰も苦しいのだけど、尾籠な話だが「げっぷ」が出そうで出ないのが苦しい。大食いをしたわけでもないのに胃袋に空気がこみ上げてきて、しかしなぜか外に出ないのが大層気持悪い。努力の末にようやく出るといったん楽になるが、ほどなくまたこみ上げてくる。これは何の症状なのだろう…

第4CP(77.1キロ):小さな公園で、スペースがないので参加者同士譲り合って休憩。いつの間にか神戸市から芦屋市に入っている。おにぎりを1個いただくが、もう食欲がない。足の指が痛むのでいったん靴をぬぎ、しばらく冷やしてから出発。

武庫大橋(82.9キロ):それまでぽつぽつ降るだけだったのに、突然の大雨が襲来。運が悪いことに橋の上に出てしまっていて、逃げ込む場所がない。ほんの3分前まではマンションやオフィスが立ち並ぶ中を歩いていたのに、なんという不運。ようやく橋を渡り切って最初の建物の軒先に逃げ込むが、舗装に跳ね返る雨粒が白いしぶきをあげている。雨具がわりの上着をかぶって道に戻ったとたんに雨がやむ。

第5CP(89.9キロ):もう何も食べたくない(第4CPでもらったおにぎりを、まだ持っている)が、粉末のお茶をお湯で溶いていただく。ことのほかおいしい。早々に出発し、すぐに神崎川を渡る。右手に電車の音がして、鉄橋を渡る阪神電車の灯火が見える。始発電車だろうか。空の一角が明るくなりはじめる。

淀川大橋(92.1キロ):淀川を歩いて渡るのは初めてだが、たいへん大きな川で、しかも川幅いっぱいに流れているので不気味な感じが漂う。左から右へ吹きつける風が冷たい。こんな早朝にもかかわらず、ランニングの人や、ジャージ姿で登校途中とおぼしき高校生(自転車)とすれ違う。この橋を毎日渡って学校に通うとしたら、真夏や真冬や雨の日は相当つらいだろうが、一生持続する根性を身につけることができるのではないかと。

阿波座駅(95.0キロ):あと5キロ。頭の中で計算してみると、もしかしたら午前7時30分までに(=22時間以内に)ゴールできるかもしれない気がしてきた。しかし相変わらずの信号待ちでペースが上がらない。

馬場町(98.2キロ):大阪城が見えてきた。空は青空。雨と汗で全身べたついて気持悪い。この先コースはお濠に沿っていくので信号はあまりなさそう。残された全力でスパートする。スパートといっても11分台しか出ないのだけど…
城の北側を大きく回り込み、ビジネスパーク側の新鴫野橋から大阪城公園に突入する。しかし公園の少年野球場の利用者?管理者?が歩道にホースで水をぶちまけている。次々に歩いてくる参加者に注意を払っているようには見えず、仕方なく道の反対側に大回りしている参加者もいるのだが、おかしな話で、はるばる99.9キロ歩いてきて、しかも公道を歩いているのに、どうして少年野球さまの水撒きに遠慮しなければならないのだろう。構わず歩道を直進し、ホールの角を左に曲がったところでゴール。突然ゴールが目の前に現れるので、心の準備ができないのはちょっと残念。

ゴールのあとはお約束のように貧血。冷汗が出て文字通りぶっ倒れ、しばらく横になってようやく回復。最後に申し訳程度にスパートしてみみっちく22時間を切ったごほうびに紙片をいただく。

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(感想)
東二見から須磨までの景色はすばらしいのだけど、第3CP(三ノ宮)以東のコースが面白くない上、信号待ちがつらい。びわ100やしおや100では考えもしなかった「信号待ちや踏切待ちの時間を差し引いたら」というしょうもないことをつい考えてしまう。歩行者にとって、姫路城とか大阪城といったキャッチ―なものには大した価値が感じられないわけで、姫路よりもっと西からスタートして、三ノ宮をゴールにするようなコース設定はできないものだろうか…

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第173回深夜句会(10/13) [俳句]

10月になっても暑く、かつ雨が降っている。
それでも、できるときには対面で句会がやりたい。

(選句用紙から)

肌寒の首にひやんとネックレス

季題「肌寒」で秋。ひやんと、が眼目だが、実は不要なのかも。「肌寒の首にネックレス」だけでも句意は通じるし、さらにいえばネックレスなので首は当然だとすると、肌寒、ネックレスだけでもいいことになる。とはいえ、ネックレスの冷たい触感を「普通に」述べているようで独自の表現になっている。

隣人の鼾も止みて虫の夜に

季題「虫」「虫の夜」で秋。隣人、って家庭の中の隣室(子供部屋?)か、文字通り隣人たとえば木賃アパートのような場所で、隣のいびきが響いているのでは。で、何かのはずみでそのいびきが止まると、あたりの虫の声が聞こえてくる。静かな住宅街であることが一句の前提。

虫の夜の洗濯物の生乾き

これは、本当に生乾きなのか、それとも、昼間乾いたのが夜になって冷たくなったのか、そのあたりがちょっと。少なくともまあ、帰宅が遅くなったことはわかるのだけど。


(句帳から)

午後からの予報通りの秋の雨

 
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