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第148回深夜句会(9/10) [俳句]

4月からWebに切り替えたのだけど、そのときには、ほんの1~2か月の緊急避難のつもりだった。それからもう半年。深夜まで開いていて、そこそこ安全そうなお店が、なかなか見つからない。

(選句用紙から)

変電所際に波打つ真葛かな

 季題「葛」で秋。葛の花も秋の季題だが、ここでは伸び放題に伸び広がった葛のようすを「波打つ」と詠んでいる。斜面や窪地などの葛を見ていると、もはやどこが根元なのかもわからないほど伸び広がり、折り重なって、まるで海のように空間を埋め尽くしていることがある。それが風に吹かれているさまは、なるほど「波打つ」なのかもしれない。
 加えて、この句が成功しているのは、それが「変電所」つまり、無人の大きな建物の「際」にあるというところ。多くの人が頻繁に出入りする建物であれば、隣地の葛もどこかに片付けられてしまうかもしれない。しかし、変電所は、大きくかつ重要な建物でありながら無人なので、葛は顧みられることもなく伸び放題になって、敷地境のフェンスにまで這い登っているのかもしれない。変電所「裏」とか「横」とか言わず、「際」として、境界まで葛が攻めかかろうとする勢いを示した点も巧み。

ゴーヤーの影青々と保健室

 季題「苦瓜」で秋。グリーンカーテンなどという言葉もあるように、夏の暑熱を遮るため、よしずのように蔓性の植物を育てることが近年勧められているが、ここではそれが、学校の保健室の外で育っている。網かなにかを掛けて、そこにゴーヤーを這い登らせているのだろう。ゴーヤー自体でなく、その「影」が青々としている、という観察もさることながら、それが「職員室」や「用務員室」ではなく、それほど人の出入りのない「保健室」(=繁茂しても邪魔扱いされない)だというところが、いかにもそれらしい。

秋夕焼色新調す世界堂

季題「秋夕焼」で秋。単に夕焼といえば夏だが、秋夕焼となると、華やかさとか力強さの代わりに、より淡くて繊細な色合いの夕暮れが想像される。こうした空の色の表現は、日本語にもどの言語にもたくさんあるのだろうが、ここでは、それが絵具の名前になっていて、その絵具を画材店へ買いに行くという設定になっているのがちょっとファンタジー風味とでも言うのか、面白い。それも「夕焼色」なら実在しそうなところ、あえて「秋夕焼色」だというのだ。それなら冬夕焼色とか、(夏の)夕焼色もあるのだろうか、などと突っ込みたくなる楽しさがある。ただ、少し情報量が多すぎて窮屈になってしまっているので、「秋夕焼色の絵具を買い求め」ぐらいでもいいのではないだろうか。

(句帳から)


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第147回深夜句会(8/6) [俳句]

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(選句用紙から)

広重の雨の中なり百日紅

 季題「百日紅」で夏。真夏の強い日差しとあわせて詠まれる句が多い中で、この句は夏の 雨のなかの百日紅を詠んでいる。降りかかるその雨が、「広重の雨」だというのだ。斜めの 細い線で歌川広重が描く、あの雨である。広重の雨は、なにも夏に限ったものではないだ ろうけれど、にわかに降り出した強い雨に右往左往する人の様子などが思い浮かび、そう すると、この百日紅も、そうした、人が行き交う広い道に植えられているのだろうか。

ひぐらしや母の籠つてゐし書斎

 季題「蜩」で秋。かつて母が使っていた書斎で調べ物か書き物かをしていると、窓の外でひぐらしが鳴いているのが聞こえる。哀れをともなうその音色に、ふと、母がここにこ もっていろいろな仕事をしていた頃のことを思い出す。甘すぎない母恋の句。

マンションと擁壁の間の梅雨晴間

 季題「梅雨晴間」で夏。すこし鑑賞が難しいが、マンション「の」でなく、マンション「と」なので、マンションとは別の構造物として擁壁があることになる。そうすると、ま ったいらな場所のマンションなら擁壁の出番はないので、丘陵地の斜面とかに、段々畑の ように土地を造成してマンションが建てられているような状況が想像され、その擁壁とマ ンションのあいだの、二本の直線で切り取られたような空が、きょうは梅雨の晴れ間を見せている。

洗ひ髪伸ばすつもりもなく伸びて

 季題「洗ひ髪」で夏。洗い髪が⻑いことをいうのに、直截に⻑いとは言わず、「伸ばすつ
もりもなく伸びて」という含みのある表現をとった。当節だと、理屈をいえば「行きつけ の美容室がずっと休みで、仕方なく」みたいな鑑賞もできるのだろうけど、それはあまり 楽しくないので、やはり「伸ばすつもりもなく伸び」た事情を詮索...いやなんでもない。

(句帳から)

地図上は破線の径がある夏野

 

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第146回深夜句会(7/9) [俳句]

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仙台の紅茶専門店「ガネーシャ」のおやつ。
なかなかリアル句会を復活させることができない。

(選句用紙から)

黒髪の母のその子の夏帽子

季題は「夏帽子」。「黒髪の」は、枕詞の「黒髪の」ではなく、髪の美称としての「黒髪」であろうか。
自分なら「母もその子も」とやってしまいそうだが、それだと説明になってしまうし、夏帽子に焦点が合わない。そうではなく、「母のその子の」としたことで、「母の夏帽子、その子の夏帽子」となって、一句の中心が夏帽子にきちんと落ち着く。なお、母のうしろをついて歩くこどもを思いうかべても鑑賞は成り立つのだけど、例えば、母が抱っこひも(エルゴベビーみたいな)で赤ちゃんをだっこしていて、その赤ちゃんも小さな夏帽子をかぶっていると想像すると、母の夏帽子と子の夏帽子の距離が近くなり、「母のその子の」が描こうとしている風景に近いのではないかと感じる。

救急車の赤きが光る梅雨の夜

季題「梅雨」。赤く光る救急車の赤色灯を詠んだ句は多くあると思うが、雨が降り、雲が低くたれこめている梅雨の夜に近づいてくる救急車の赤色灯は、厳寒の夜とか晩春の夜のそれとはまた異なった禍々しさを感じさせる。

調律の終はりしピアノ夏の雨

季題「夏の雨」。調律が終わって音が整えられたピアノから連想されやすいのは、秋や冬の澄んだ空気だと思うのだけど、この句はなぜ「夏の雨」なのだろう。もちろんそういう状況は実在するが、せっかくの調律が一発で狂ってしまう高音高湿の「夏の雨」と調律をどう結びつけて鑑賞すればよいのか…としばらく考えて思い出したのが、宮下奈都「羊と鋼の森」(2015、文藝春秋)に出てくるエピソードだ。古い小さな家にひとりで暮らす青年が、十五年ぶりに調律を依頼する。十五年前には家族で暮らしていて、親が調律を頼んだのだろうが、何らかの事情でいまはその家にひとり逼塞している青年は、誰かのためでなく、自分のためにピアノを弾いている。そうであっても、そこにはピアノを弾く歓びがあって、コンサートホールで弾かれる音楽と優劣があるわけではない、といったエピソード。これを念頭におくと、夏の雨が窓から見える、家庭のピアノ(コンサートホールの中からは、夏の雨が見えない)で、あらかじめ予定されていた調律がいま終わったところが想像される。

(句帳から)

この雲の上に花野のあるらしく
バビロンに至る街道夏の月

 
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第145回深夜句会(6/11) [俳句]

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先月同様、気分だけはカフェでの句会ふうに…

(選句用紙から)

 さみどりの中に生まれしトマトかな

 季題「トマト」で夏。トマトの赤い色を詠んだ句は数多くあるが、その赤が、緑色の壁ともいうべきトマト畑の中からぽつんぽつんと生まれてくる。赤い果実が緑の草木から生まれればみな同じことのように考えがちだが、露地にせよ温室にせよ、トマト畑は背丈を伴った緑色であって、ことによるとその蔭からあるじが出てきたりするぐらいのボリュームがある。その、上下左右どこまでも圧倒的な緑のあちこちに、ふと赤がきざして、トマトの実が「生まれて」くることの感興が詠われている。

つひの色深めて垂るる四葩かな

 季題「四葩」で夏。さまざまに色を変えて咲くあじさいの、そのいちばん最後の色がいっそう深まり、花全体が下をむいて垂れている。一句の眼目は「つひの色」にある。この句では、最後の色、つまり、青が強まったり赤が濃くなったりしたあげくの、その最後の色という意味で用いられており、ああなるほど、あじさいだからこそ「つひの色」があるのだと思わせる。
 他方、「ついの住処」とか「ついの別れ」などという言葉があるように、「つひ」は、人生の終わりを示すことばでもあり、そう読むと、さまざまに咲きついできたあじさいの花の終焉と読むこともできる、ただその場合、「垂るる」との距離が近すぎるかもしれない。

五月雨や二級河川といふ大河

 季題「五月雨」で夏。芭蕉の句や蕪村の句が「疑う余地のない大河」を詠んでいるのに対し、「二級河川という大河」なので、「河川法上は二級河川とされているが、しかしこの季節には増水して、二級河川という立派な大河なのだ」という句になる。比較的地元の生活に近い存在なのが二級河川でもあって、おらが村、おらが町の五月雨の様子として鑑賞することができる。

夏めくやキッチンマット洗ひたて

 夏めくは「夏らしくなる」。バスマット等と違って大きさがあるから、毎日洗うことが必ずしも想定されていないのがキッチンマットだが、きょうはそれを洗って干した。初夏の陽気でそれがきれいに乾き、その風合いを足の裏で(この季節なので、はだしで)楽しむことができる。季題が動かない。

(句帳から)

梔子の咲き疲れたる夜風かな
前線が通過してから青嵐

 
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第144回深夜句会(5/14) [俳句]

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気分だけは、カフェで句会をやってる風に…

(選句用紙から)

柿若葉けふも真新しき色に

季題「柿若葉」で夏。「若葉」も季題だが、特に柿の若葉は、ひとめでそれとわかるほど鮮やかな黄緑色をしていて、かつ、その色が何日も続く。きょうのような雨の日でさえ、そこだけ明るくなっているほどだ。通勤途上の公園あるいは生産緑地であろうか、思わず口をついて出た「けふも」という言葉が、柿若葉の柿若葉らしさを言い得ている。

レコードの音色のやうに霾れる

季題「霾」で春。黄砂の色や形について誰もがさまざまに詠むのだけど、これは意表をついた表現。アナログレコードをプレーヤーにかけたことのある人ならば、レコードにはジリとかパチといったノイズがつきまとうことをご存じだと思うが、避けがたいそのノイズの感じが、目に見えない黄砂のちりちりザラザラした違和感に通じるというのである。もちろん感覚なのだけど、そうだよね、という一句。

春雨の厚さの見ゆる街路灯

灯火が横からあたると、雨粒の大きさや密度がわかる。ここでは春雨に街路灯があたっているのだけど、大きさも密度も、それほど「厚い」わけではなかろう。さほどでもない厚さを、あえて「見ゆる」と表現したものと観賞した。

後れ毛の白髪きらめく薄暑かな

季題「薄暑」で夏。軽く汗ばむような暑さにあって、女性の後れ毛に光があたって白く輝いている。「銀髪」などという言葉もあるが、この句では、白髪も、そのあるじも、「きらめく」という少々通俗的な表現で肯定的に捉えられている。

(句帳から)

カメラから見えない位置にアイスティー


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第143回深夜句会(4/23) [俳句]

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頼みの綱の「マメヒコ」が営業時間短縮。
やむを得ずメールで投句を募ったところ、案に相違して多数の投句。

(選句用紙から)

風車ちょつと戻つてから止まる

季題「風車」で春。こどもが手にしている風車か、それとも、自転車のかごにくくりつけられているのか。その風車が減速して、ついには止まるのだけど、ただ減速してぴたっと止まるのでなく、最後の瞬間わずかに逆に動いて止まる。 どうしてそうなるのかは判らないし、いつもそうなるわけではないが、確かにそ ういうことがある。「それがどうしたの」と言う人がいそうだけど、この風車が 精密機械のように作られていたら多分こうはならないはずで、風車の素材のぺ らぺらした感触や、簡単に作られた感じを言い得ている。

おのおのの色に夕日のチューリップ

季題「チューリップ」で春。一句の眼目は「おのおのの色」にあって、具体的に何の色とは言わずに、どんな色かを考えさせる。広大な畑に同じ色がたくさん 咲いているというより、庭先などにいろいろな色のチューリップが少しずつ咲 いていると読んだ。さらに、「おのおのの色」はおおむね暖色系(⻩色、オレン ジ、ピンク、赤...)であって、それが夕日の色とよく響きあっている。これらの ことを、いちいち色の名前を挙げて言うのでなく、「おのおのの色」とだけ言っ て読者に委ねるところが巧み。

(句帳から)

通抜禁止と書かれ花の雨
バス二台続けて来たる花の昼
点線のやうにガラスに春の雨

 


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第142回深夜句会(3/12) [俳句]

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自粛する気はないので、念のため会場だけ変更(換気のよさそうな店に変更)していつもどおり開催。単に幹事を務めているだけなので、偉そうにいう必要もないのだけど。

(選句用紙から)

雨の香に包まれてゐてあたたかし

季題「暖か」で春。ストレートに春の陽気をいうのでなく、春の雨、それも春の雨のにおいを詠っているところが面白い。これが冬の雨とか夏の雨ならこういう句にはならないわけで、春の土にそそぐ春の雨だから、その独特のにおいとともに暖かさが感じられるのだと思う。また、この句での暖かさは、気持ちの上での暖かさとも読める。


大試験終へておほきな木に集ひ

季題「大試験」で春。入学試験でも卒業試験でも、ともかくそういう特別な試験が終わって、それまでの水を打ったような静けさと緊張感から一転して、答案用紙に向かい合っていた者たちがキャンパスの大きな木の下に集まってあれこれ言い合っている。大きな木の「大」が「大試験」と重なるのを避けて「おほきな」とかなにしているところも周到。
私は、卒業試験のあとで、このキャンパスで何年も一緒に過ごしてきた学生たちが、キャンパスの象徴である大きな木の下で、残り少ない時間を惜しんでおしゃべりをしている風景と鑑賞した。

(句帳から)

少しづつ離れて座り春寒し

  
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番町句会(2/14) [俳句]

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きょうのお題は「雪間」。「雪のひま」とも。

(選句用紙から)

なにやらの雪間となりし足の跡

動物の足跡は、それがつけられたときには、雪面の凹みにすぎないのだけど、春になって雪がひいていくと、その凹んだ部分で、周囲より早く地面が露出するので、足跡を再現したかのように(厳密なものではないが)雪間が現れる。「なにやらの」は「足の跡」にかかるので少しわかりにくいが、そういう句意だろう。これは観察眼の勝利。

鬼に豆撒きながら逃げまた撒きて

こどもが豆撒きをしているのだけど、鬼を務める親が頑張っているのか怖いのか、こどもが「鬼は外!」と連呼しながら、でもあとずさりしているという風景。ほほえましい。下五の「また撒きて」がいい。

(句帳から)

跔まりてこどものスキー靴締める
背丈より大きな雪だるまつくる
木の数と同じだけある雪間かな
雪間から雪間へ伝ひ歩きかな
雪のひま日毎に版図拡大し
きのうより広がってゐる雪間かな
刷毛で引いたやうに戸隠雪間かな

 
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第141回深夜句会(2/13) [俳句]

(選句用紙から)

スーパーの前のバス停日脚伸ぶ

地方の、ロードサイド店とかショッピングモールの中にあるスーパーだと、お客の大半は自分の車を運転して来るので、仮に路線バスのバス停があったとしても、目立たない存在と思われるのだけど、都会のスーパーには、そもそも駐車場がなかったり限られたりするので、スーパーの前のバス停には、レジ袋や手提げをかかえたお客さんがバスを待っている風景が普通にみられる。路線も、2つも3つもあったりで。その、バスを待っている人たちの風景が、この時間になってもまだ日が沈まないので見えている。何も書いてないけど、都会らしい風景。


サックスの男禿頭風光る

季題「風光る」で春。公園か河原か、いずれにせよ屋外でサックスを吹いているのだろう。サックスの甘い音が、春の風に乗ってこちらへ流れてくる。ふと奏者を見やると、つるっと禿げている…が、それさえも楽しく感じられる。下五の季題が何でもいいじゃないか、というなかれ。これが「秋の風」だったら、さしたる興趣は感じられないうえ、「禿頭」と「秋」がどことなく俗っぽい感じを醸してしまう。「冬の風」だったら、なにしろ寒いわけだから、何かの修行ですか、みたいなことになって、やっぱり詩情には遠い。なんでもいいようでいて、やはり「風光る」なんだと思う。


(句帳から)

餅花の揺れて吹出口の下
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第140回深夜句会(1/16) [俳句]

深夜句会の会場は、いつも同じカフェを使っているが予約はしていないので、隣のテーブルの会話が聞こえてきたりするのだけど、かなり高い確率で、怪しい自己啓発セミナーとかマルチ商法の勧誘みたいなものが行われていて、聞くともなしに聞きながら、うーんこういう手合いに横から茶々を入れたらどうなるのだろうかと思う。

(清記用紙から)

ぼそぼそと降りてやまざる寒の雨

「ぼそぼそと」には、気勢のあがらない語感があるが、寒の雨が、たたきつけるのでもなく、しとしとでもなく、「ぼそぼそと」降っていると感じた。その感じ方の勝利。

小川にも瀬てふものあり冬枯るる

小川にもの「も」にちょっと説明のきらいがあるけれど、冬涸れの、水の少ない小川にも、淵と瀬がちゃんとある、という発見。冬の小川の、音を立てて流れる瀬は、夏や秋とはおのずから違った色や姿をしていることだろう。

(句帳から)

バスを待ち三寒四温始まれる
「シマダス」の新版拾ひ読みはじむ
ふと会つてみたく恩師に賀状書く

  

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番町句会(1/10) [俳句]

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地下鉄の中でも句を詠みつづけ、初句会にすべりこみセーフ!
きょうのお題は「避寒」。少しクラシックな季題だが、ことさらにクラシックな感じを狙うのでなく、「わたしの避寒」を表現しようと試みる。もっとも、寒いときに寒いところへ行くのが好きなので、実感はないのだけど。

(選句用紙から)

屋根おほふブルーシートに初明り

季題「初明り」で新年。元日の夜明け、空が明るんでくると、それまで一様に真っ暗だった家々の屋根の姿や色かたちが明らかになってくる。そうした中に(あるいは、野中の一軒でもいいのだけど)、ブルーシートがかけられたままの屋根があった。昨年の台風で損なわれたものか、あるいはもっと前からそうなっているのか不明だが、すぐ直すこともままならないまま正月を迎えたその屋根にも初明かりがさし、初御空が広がっている。

画鋲跡少しずらせる初暦

季題「初暦」で新年。日めくりのようなものも、1枚の大きなカレンダーも「暦」だが、ここでは、新しいカレンダーを壁に貼ったのだろう、その際、毎年同じ大きさのカレンダーを壁に貼っているので、その画鋲の跡が同じ個所に集中していることに気づいた。そこで、深い意味はないが(しいていえば、画鋲がしっかり固定されるように)場所をわずかにずらして画鋲で止めた。

本邸に寄らず避寒の地へ戻る

これは西園寺公望ですね。もっとも西園寺公は、冬以外もおおむね興津の坐魚荘で過ごしていたそうなので、避寒の地というより事実上の本宅なのだけど、この句は冬の句ということで、東京のさむざむとしたお屋敷「邸宅」に立ち寄ることなく、冬でも日差しが降り注ぐ興津の別荘に帰ってゆくという対比が想像されて楽しい。みかんの色。

(句帳から)

冬夕焼ずつと遠くへゆく列車
 この句は、12月20日の「恩師を見送る(1)」で詠んだものをそのまま投句したのだけど、師匠は、字面を離れてその句意を見通した鑑賞をしてくださった(※)。そのように読んでいただけるならば、詠んだ甲斐があったというもので、感謝感謝。

玄関に椅子が置かれて避寒宿
山と海とわづかな平地避寒宿
避寒宿もとは果樹園だつた丘
窓に雨あたるときどき雪あたる

(※2.22追記)
師匠のご了解を得て、その句評を転載する。

冬夕焼ずつと遠くへゆく列車

これは人気がありましたね。列車というものが持っている、僕らの、軽薄に言えばロマンかもしれないけれども、思い入れというのがありますね。しかもこの句の場合、「ずっと遠くへゆく」という言い方が、非常に含みがあるように感じた。僕がふっと思ったのは、お父さん、帰ってこないけれど、どこに行ったの。ずっと遠くへ行ったわよ。ずっと遠くというのが、悲しいような遠く。次元の違う遠く。二度と会えない遠く。なんてことまで、この「ずっと遠く」にはあるような気がした。表面で言っているのは、小田原や熱海まで行く列車だと思ったら、出雲までゆく列車だったよというのが、一番無難な解釈なんだけれど、つまり今日中にどこかへ着くのではなくて、明日になって着く列車が混ざって走っているというのが、一番無難な解釈。そんな無難な解釈をしながら、どこかで、ずっと遠くということばの持っている、底知れない怖さみたいなものを、僕はこの句から感じて、「ずっと遠くね」という気がして、ちょっとシュンとしていたんだけれど、読者によって、どうとでも解釈できるものだと思いました。



  

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番町句会(12/13) [俳句]

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兼題は「牡蠣」。自分は今年最後の句会だが、隣の方が「数えてみたら、1年で72回の句会に参加していた」とおっしゃるので驚く。72回って月6回…週1を超えるハイペースではないですか。うらまやしい。

(選句用紙から)

次々と啄みにくる冬の鳥

ほとんど物音のしない、冬の静かな風景。家の窓から庭の柿の木とかオリーブの木を見ていると、そこへいろいろな鳥が、「次々と」ついばみにやってくる。同じ種類の鳥が何十羽もいちどに群がるのではなく、一羽または数羽ずつ「次々と」やってくる、というところに味がある。ちょっと気がせいているのは、食べ物の少ない冬だから、というと理屈になってしまうが、来る・ついばむ・飛んでいくの繰り返しの面白さと、ずっと同じ場所から見ている(時間の経過)視点の面白さ。

店頭に牡蠣剥く漢巴里の宵

パリについて何も知らないのだけど、こういう専門職のようなものがあるのだろうか。そういう人のサーブを受けながら、これからはじまる長い夜を、どう楽しもうかと相談している粋な風景。巴里の「宵」が、通俗に陥る手前で踏みとどまっていて好ましい。

森を育て而して牡蠣を育てしと

魚つき保安林、という言葉が認知されるようになって久しいが、ここには森と(川と)海の物語があるのですね。


(句帳から)

半ばまで削られながら山眠る
牡蠣船の繋がれてゐる水路かな
冬紅葉公会堂の楽屋口
着ぶくれてエスカレーター一列に
駅前の来々軒の聖樹かな

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第139回深夜句会(12/12) [俳句]

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いつもお世話になっているカフエ「マメヒコ」で、晩ごはんのかわりに焼きりんごをいただく。スタッフの方の説明によると、ことしはリンゴが不作で、いいものが入ったときだけ業者さんが(青森から)送ってくださるのだそうだ。品種も、例年の「あかね」ではなく紅玉とのこと。

(清記用紙から)

息白きことを伝えて電話切る

季題「息白し」で冬。会話の終わり際に「きょうは寒くて、こうして話していても息が白いんだよ」と伝えて電話を切った。
上司からの業務指示の電話だったら、さっさと終わらせたいのでこんなことは話さないし、同居している家族との通話だったら、きょう寒いことはお互いに自明なのでやはりこんなことは話さない。そうすると、こういう会話が成り立つのは、相手が「遠くに住んでいる、親しい人」の場合に限られる。実家とか、遠距離恋愛とか、単身赴任先とか。そこがこの句の第一の面白さ。

もう一つ、「息が白いこと」を電話で伝えられるのは、この会話が屋外で行われているからだと思われ、携帯電話が普及している現在では当たり前に鑑賞できるわけだが、これが二十年ほど前だったら、商店の店先の赤電話に十円玉を次々と放り込みながら、そんな話をしている風景、という鑑賞になったことだろう。そういうつもりがなくても(ことさらにそのように意図せずとも)、俳句は時代を映しているという例。


部屋干しの洗濯裏の聖樹かな

季題「聖樹」で冬(歳晩)。クリスマスツリーのことですね。冬の室内で、加湿目的を兼ねて洗濯物が干されているのだけど、ツリーがその向こうに隠れてしまっている。「洗濯裏」ってちょっと苦しいというか舌足らずな表現だけど、あえて洗濯「裏」と言い切ったことで、表通り・裏通りのようなニュアンスと洗濯物がぶつかって、奇妙なおかしさが醸されている。また、部屋干しの洗濯物に隠れるぐらいだから、それほど巨大なツリーでないこともわかる。
ところで、「部屋干し」という言葉は最近よく耳にするのだけど、昔からある言葉なのだろうか。


寒暁を切り絵のごとく列車ゆく

季題「寒暁」で冬。日の出直前の一番寒い時間帯に「切り絵のごとく」列車(電車ではなく、列車であることに注意)がゆくというので、始発列車とか、夜行列車とかが、明るくなってきた東の空に、シルエットのように動いていく様子と思われる。従って、詠み手と列車との距離は近すぎず遠すぎず、かつ、列車は土手や高架橋のような、詠み手より一段高いところ(空が背景になるようなところ)を走っていることもわかる。光の当たり方によっては、機関車や車両の形だけでなく、一つ一つの窓までもが浮かび上がったりする。
もしかすると類句があるかもしれないが、文字通り「絵のように」美しい風景。

(句帳から)

島影の滲んでをりて冬夕焼
門柱と塀と残つてをる冬野
冬温し雨音耳に心地よく


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番町句会(11/8) [俳句]

きょうのお題は「大根洗ふ」。実景を見ていないとなかなか詠めない季題。

(選句用紙から)

宅配の手押し車に冬日濃く

ここでいう「手押し車」は、建設現場や保育園でいう「手押し車」ではなく、オフィスで通常「台車」と呼ばれる、低い荷台に車輪がついた折り畳み式の運搬具のことだろう。宅配便は、トラックのほかに自転車で牽引するリヤカーのような車両も見かけるが、ともかく配達先のマンションの前とか会社の駐車場とかに車両を停めて、そこから先、その配達先に届ける荷物を台車に乗せて押していくのだ。どのくらい多いかはわからないが、複数あるから台車を使うことが前提。で、トラックから台車に移された荷物にも、台車にも、冬の日がひとしくあたっている。

諍へるままに大根洗ひをり

農婦、ということば自体が死語かもしれないが、畑から抜いて積み上げた大根を、流水だか湧き水だかの畔で洗っている。ところが、近くで見ていると、その洗っている本人が、同じく洗っている配偶者だか農婦仲間だかと何やら口論をしながら、ただ手足は忙しく動かして、大根を洗い続けている。大根がたくさんあるから、手足を止めて本格的に口喧嘩をするわけにはいかないのだ、とか理屈を言わなくても、面白くて少し悲しい一句。


(句帳から)

車窓より見ゆる焚火の暗さかな
両岸の枯野しだいに暗くなる
粉のにほひバターのにほひ冬温し

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第138回深夜句会(11/14) [俳句]

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(選句用紙から)

空白は雪原クリスマスカード

 雪も季題だが、この句の季題は「クリスマスカード」のほう。受け取ったのか書いているのか、クリスマスカードにサンタクロースとかトナカイのそりとかが印刷されているのだけど、その周囲は、文字を書き込むための余白(空白)になっている。何も印刷されていない空白は、あたかも雪原であるかのように見えるデザインになっている。
グリーティングカードによく用いられる、ザラザラした(=あまりつるつるしていない)厚手の紙のあたたかな質感が連想され、ひいては送られてきたクリスマスカードの温かさが感じられるような一句。

耳の皮膚うすらかなるや冬日影

 うすらか(薄らか)、ってあまり使わない表現だけど面白い。
 最初、冬の日影に入って耳が寒い、そういえば耳の皮膚は薄いので寒さを感じやすいから、という身体感覚が面白いと感じたのだけど、互選のあとの検討で、これは冬の光がさしていて耳がほの赤く透けて見える、という他の句でしょう、と指摘されて、なるほどそうかも、と納得。そうすると、冬の日ざし―低い角度で射しているので、この句のような状況になりやすいーに対する親しみをあらわした句ということになり、こちらの方が詩情としては豊かに思われる。

(句帳から)

湖に突き出た陸地冬桜

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第137回深夜句会(10/10) [俳句]

(選句用紙から)

枝細くなりゆく先の木の実かな

季題「木の実」で秋。枝の先に木の実がついているという一見単純な風景なのだが、
・木の実が一様についているのでなく、枝先についていること
・その枝が、幹に近いところから枝先に向けて細くなっていること
・細くなっていることがわかるぐらい、枝があらわになっていること、つまり、すでに葉が落ちはじめていること
などがうかがわれ、読み手が風景を再現できる一句。

秋の野に子の散らばつてしまひたる

散らばって、というからにはある程度の数のこどもなのだろう。園児を連れてきた保育士さんとか、娘や息子たちを連れてきた親とかであろうか。ちらばって「しまう」には、本意ではない、という気持が含まれているが、秋の野が危険なところでない前提で読むならば、ここではそれを楽しんでいることになる。また、秋の野やこどもたちの上にある空の広がりも感じられる。

(句帳から)

終バスが待つてゐてくれ暮の秋
秋深きマグカップにはミルクティー
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第136回深夜句会(9/12) [俳句]

朝晩ようやく涼しくなってきたのがうれしい。

(選句用紙から)

影ひいて立てる良夜の警備員

季題「良夜」で秋。中秋の名月に限らず、月の明るい夜、というぐらいの意味でも使われる季題だが、その明るい月が、警備員に影を曳かせている、と読むと、月の影がわかるぐらい暗い場所にいるように想像されて楽しい(例えば、広い工場の敷地を巡回しているとか)。実際には、そこまで暗い場所に立つことは稀だろうが。
また、検討のなかで作者の推敲の過程をお聞きすることができたが、多くの可能性を検討し、言葉を選んでいるのですね。


東京の川のしづけさ鱗雲
 
季題「鱗雲」で秋。「鰯雲」などと同義。
東京に生まれ育っていると、東京の川は静かだとかにぎやかだとか感じることもないのだろうけど、例えば黒部川とか球磨川のほとりで育った人が東京へやってきたら、確かに「東京の川って、音もたてずに静かに流れているんだね」と思うだろう。同じものを見ても受け止め方が違うという好例。そこに発見というか、俳句のいとぐちがあるように思うわけで。
で、この句の肝心なところは、そのしんとした感じ(受け止め)が「鱗雲」という秋の季題とよく響きあっているところ。これが例えば「春の雲」だったら中途半端だし、「夏の雲」だと「そうかな?」になってしまうし、「冬の雲」だったら鑑賞しにくい(冬なので水が涸れていて静かだ、と読んでしまう惧れもある)。季題が動きそうで動かない。

(句帳から)

秋晴や吊荷かすかに揺れてゐて
丸窓のよく手入れされ紫菀かな

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第135回深夜句会(8/22) [俳句]

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いつもお世話になっているカフエ「マメヒコ」で、クロカンSサイズをいただく。

夏休みにもかかわらず(夏休みなので、だろうか?)、にぎやかな句会に。

(選句用紙から)

夏と同じ秋の帽子を売りにけり

冬帽子とか夏帽子という季題はあるが、秋帽子とか春帽子という季題はない。もちろん、帽子という季題もない。で、お店ではいつでも帽子を売っているわけだけど、当節こんな気候なので、秋になっても店頭には、夏と同じ帽子(速乾性とかUVカットとか、そんな機能を売りにした帽子であろうか)が売られている、という一句。地球温暖化とか大上段に振りかぶらずに、さらっと「夏と同じ秋の帽子」としたところが眼目で、その行き過ぎない諧謔味や、まあそうだよね、という苦い笑いが楽しい。


流星の夜空にふれて消ゆるかな

季題「流星」で秋。地上から流星を見ていると、夜空の一点からスタートした光が一瞬のうちにすばやく動いて、夜空の別の一点で消えるように見えるわけだが(消える直前に激しく輝くこともある)、それが、「夜空から夜空」ではなく、夜空ではないどこかからスタートして、夜空に「ふれて」消えた、という受け止めかたが独特。夜空でないどこか、とはどこなのだろう、などと考えさせる。

(句帳から)

貼紙をして仏壇屋夏休
八月の夜の街頭温度計
秋暑し二本つづけて通過して


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番町句会(7/12) [俳句]

(選句用紙から)

静かなる雨の窓辺の金魚草

季題「金魚草」で春。「静かなる」がどこにかかっているのかよくわからないのだけど、あえて全体にかかっているように読ませるねらいだとすれば、おおむね成功しているように思う。春の静かな雨、窓の外で濡れながら揺れている金魚草(この場合、金魚草の色が黄色やピンクといった、明るく華やかな色であることが一句に効果をもたらしている)、これらが総じて「静か」だという読み方。異論はあると思うが。


灯台へ近づいていく日傘かな

季題「日傘」で夏。映画のワンシーンのようだが、日傘の白、灯台の白、夏空の青といった要素と、灯台へ「近づいていく」というところ。観光地の有名な灯台でも悪くはないのだけど、人里離れた灯台に、近くの官舎に住む灯台守の家族がお弁当を運んでいるなどという(友人の灯台が稀な存在となった今では歴史的な)風景だと、日傘がたった一人で歩いている様子が際立つので美しい。

(句帳から)

夜濯や廊下の長い社員寮
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第134回深夜句会(7/11) [俳句]

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いつもお世話になっている「マメヒコ」で、チリコンカンのホットサンドをいただく。おいしい(あまりおいしそうに写っていないが…)。
外は雨。気温が低いので、真夏の句がうまく詠めない。

(選句用紙から)

ファーブルがかぶったやうな夏帽子

季題「夏帽子」。ファーブルがいつごろの人物なのか、実はよく知らないのだけど、歴史上の人物の姿って、限られた絵や写真でしか知ることができないので、「芥川龍之介といえばこんな格好」とか「ベートーヴェンといえばこんな格好」のように、顔や装束が固定されてしまうのですね。
で、ファーブルの写真というと、たしか丸くて黒っぽい帽子をかぶっていた姿を国語の教科書で見たような気がする。いま試みにgoogleで検索してみると、実際その通りなのだけど、ただこれは夏帽子なのか、一年中この帽子なのか定かではないけれども。
この句の面白いところは、野外で昆虫を観察することに生涯をささげたファーブルだから「夏帽子」が活きてくるということ。これが例えば「シューマンが」とか「ラッセルが」みたいなインドア系の人だったら、たとえ夏帽子をかぶった写真があっても、俳句として面白くないわけだ。

梅雨寒の第一団地前通過

季題「梅雨寒」。通過するのはバスで、詠み手はそのバスに乗っている。第一団地というからには第二団地もあるのだろうが、かつてはたくさんの働き手や学生やこどもが住んでいる(いた)はずの第一団地なのに、今では乗り降りする人さえおらず、バスも通過してしまう。雨の中、うっすらと寒いこの風景は、大げさにいえば、高齢化が進んだ「いまどきの日本の団地」なのだろう。そのように説明するのでなく、眼前の事実をもってそれを表した一句。なお、一軒家が立ち並んでいる造成地を「団地」と呼ぶこともあるが、ここでは集合住宅が何棟も並んでいる風景を思い浮かべた。


(句帳から)

梅雨寒や湯沸室の立ち話
水草の花のあひだの幼魚かな
会議室の西日しだいに耐へがたく


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