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二冊の『自省録』(神谷美恵子訳,岩波文庫,1947/鈴木照男訳,講談社学術文庫,2006) [本と雑誌]

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Eテレ「100分de名著」4月のテキストは、マルクス・アウレリウス『自省録』!
『自省録」は、わがオールタイムベスト10に入る本なので、この地味な哲学書を「100分de名著」が取り上げてくださったことに感謝。

テキストを読むと、この本の成り立ちについて、今まで知らなかったことも含めて解説されていて、ほうほうと納得。しかし、公開を前提としていなかった個人的手記に写本があって、それが16世紀になってから印刷(活版?木版?)された経緯が今一つよくわからない(16世紀までに、写本の所蔵先で広く使われていたとか、写本の写本がたくさん出回っていたということだろうか)。この点は、岩波文庫版でも明らかにされていない。
また、講師の専門からしてしょうがないのだろうけど、「自省録」のいろいろな部分について、アドラーも同様のことを言っていると紹介するのはどうなのだろう。事実そうなのだろうけど、自省録ファンの多くは、洵に申し訳ないが、アドラーの話を聞きたいわけではないのです。それに、後世の人が同様のことを言っているというなら、徒然草だって「自省録」と同様のことを言っているわけで。たとえば59段や85段などは、「兼好法師は『自省録』を読んでいたのかな?」と思ってしまうほどだ。

それはともかく、ここへきて「自省録」が本屋で平積みになっているのを見ると、少しでも多くの人がこの本を手に取ってくれたらと願わずにいられない。手元にある1冊目の『自省録』(写真左側)は、言わずと知れた岩波文庫版(神谷美恵子訳)であるが、これを本屋で入手してから、今月でちょうど40年になる(こう書くと、年齢が40歳以上であることがバレてしまうが、致し方ない)。この本を読む前と読んだ後で、自分の人生はすっかり変わってしまった(変わったわけではなく、もともとそういうメンタリティの持ち主だったから、この本に共感したとも考えられるが)。世界史の先生がタイトルを教えてくださった授業の様子とか、初めて手に取った本屋の棚とか、開いて読み始めた駅のホームとか、この本にまつわるさまざまな風景を、いまも鮮明に覚えている。また、就職して実家を出たとき荷物に加えた数少ない本の一冊でもある。

で、いい本だと言っておきながら、新訳が出ていることを知らなかったのも情けないのだけど、この機会に新訳(写真右側)も購入して、改めて両方に目を通してみる(本屋さん、なかなか商売上手です)。ひととおり最後まで読んでみたのだが、これは旧訳のほうが読みやすいといわざるを得ないのではないかなあ。例として、3章10節の冒頭と4章45節を挙げるとこんな感じ。以下引用。

(旧訳)
ほかのものは全部投げ捨ててただこれら少数のことを守れ。それと同時に記憶せよ、各人はただ現在、この一瞬間にすぎない現在のみを生きるのだということを。その他はすでに生きられてしまったか、もしくはまだ未知のものに属する。
(新訳)
されば、すべてを放下しただそれら僅かなことのみを堅持せよ。そしてなお合わせて銘記せよ――各人はただ束の間のこの現在のみを生きているのである。それ以外はすでに生き終えてしまったこと、ないしは、いまだ明らかならぬ不確定のことである。

(旧訳)
後に続いて来るものは前に来たものとつねに密接な関係を持っている。なぜならばこれは単にものを別々に取り上げて数えあげ、それがただ不可避的な順序を持っているにすぎないというような場合とは異り、そこには合理的な連絡があるのである。そしてあたかもすべての存在が調和をもって組み合わされているように、すべて生起する事柄は単なる継続ではなく或る驚くべき親和性を現わしているのである。
(新訳)
後続するものは先行するものに緊密に結びついて継起するのである。なぜなら、それはばらばらに分離したものの一種の枚挙、それも専ら外からがっちり強制された性格の枚挙といったものではなく、十分な根拠づけをもつ連結である。そして存在する諸物が一大調和をなしつつ配置されているごとく、生起するものもまた単なる継承でなく賛嘆すべきある種の近親性を顕示しているのである。

以上引用終わり。ことによると、新訳のほうが原語に忠実なのかもしれない(ギリシャ語を全く解さない自分には、それを検証することができない)が、少なくとも、読み物としては旧訳に軍配をあげざるを得ないと思う。

長いあいだ勘違いしていたことがひとつ。神谷美恵子さんは、英語訳から重訳したものとばかり思っていたのだけど、原典(古典ギリシャ語)から訳されていたのですね。神谷美恵子ファンとして、この勘違いはかなり恥ずかしいのだけど、戦中戦後のあの混乱のなかで、もっといえば、食べていくことや生きていくこと自体が大変だった時代にあって、これは途方もない偉業ではないですか。改めて尊敬する。

ところで、この本に全然関係ないことだけど、本のなかほどに、馬券のコピーがはさんであった。馬の名前が「アタラクシア」というのでこの本にはさんだのかもしれないが、全然記憶がない。「2000年5月28日、第67回日本ダービー」と書かれている。この馬のオーナーは、どういうつもりでこの名前をつけたのだろう。

 

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第134回深夜句会(7/11) [俳句]

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いつもお世話になっている「マメヒコ」で、チリコンカンのホットサンドをいただく。おいしい(あまりおいしそうに写っていないが…)。
外は雨。気温が低いので、真夏の句がうまく詠めない。

(選句用紙から)

ファーブルがかぶったやうな夏帽子

季題「夏帽子」。ファーブルがいつごろの人物なのか、実はよく知らないのだけど、歴史上の人物の姿って、限られた絵や写真でしか知ることができないので、「芥川龍之介といえばこんな格好」とか「ベートーヴェンといえばこんな格好」のように、顔や装束が固定されてしまうのですね。
で、ファーブルの写真というと、たしか丸くて黒っぽい帽子をかぶっていた姿を国語の教科書で見たような気がする。いま試みにgoogleで検索してみると、実際その通りなのだけど、ただこれは夏帽子なのか、一年中この帽子なのか定かではないけれども。
この句の面白いところは、野外で昆虫を観察することに生涯をささげたファーブルだから「夏帽子」が活きてくるということ。これが例えば「シューマンが」とか「ラッセルが」みたいなインドア系の人だったら、たとえ夏帽子をかぶった写真があっても、俳句として面白くないわけだ。

梅雨寒の第一団地前通過

季題「梅雨寒」。通過するのはバスで、詠み手はそのバスに乗っている。第一団地というからには第二団地もあるのだろうが、かつてはたくさんの働き手や学生やこどもが住んでいる(いた)はずの第一団地なのに、今では乗り降りする人さえおらず、バスも通過してしまう。雨の中、うっすらと寒いこの風景は、大げさにいえば、高齢化が進んだ「いまどきの日本の団地」なのだろう。そのように説明するのでなく、眼前の事実をもってそれを表した一句。なお、一軒家が立ち並んでいる造成地を「団地」と呼ぶこともあるが、ここでは集合住宅が何棟も並んでいる風景を思い浮かべた。


(句帳から)

梅雨寒や湯沸室の立ち話
水草の花のあひだの幼魚かな
会議室の西日しだいに耐へがたく


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藤岡陽子『陽だまりのひと』(祥伝社文庫、2019) [本と雑誌]

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『ホイッスル』(光文社文庫、2016)に登場する小さな法律事務所が、本作の舞台になっている。法律家の仕事をとりあげた小説はたくさんあるが、「説明」なしでわかる範囲には限界があるし、説明を始めると小説がつまらなくなってしまうし、書くのが難しいジャンルだと思う。でもこの作品は、じゃまにならない程度に理解することができ、楽しむことができる。
波乱万丈・驚天動地の物語とか、ストーリーが入り組んだミステリとかを望む読者にとっては、盛り上がりやオチに欠けるように思えるかもしれないが、むしろこのあっさり感が、何もかも詰め込みすぎの小説にへきえきした後では、すがすがしく感じる。続編希望。

 

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第133回深夜句会(6/13) [俳句]

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(選句用紙から)

別に好きでもない映画明け易し

季題「明易し」で夏。深夜のテレビで放送されている、まあどうでもいいような映画を、見るでもなく消すでもなくぼんやりしていると、やがて外が明るくなってきた。
一読して、どうして「明易や別に好きでもない映画」としなかったのかと思った(そのほうがリズムもいいし、句意は変わらない)。しかし、これはもしかすると、あえて「別に」を句の頭に出したかったということではないだろうか。つまり、ツンデレ表現で「べ、べつにこんな映画好きでも何でもないんだからね!」と言わせたかった=本心は、昔見たその映画に、忘れがたい思い出があるのだ、という句ではないかと。その場合、句意はまったく逆になってくる。
しかし、そういう読み方って、世間で流行りのものの言い方を読み手が共有していることが前提になるので、もう10年早ければこの解釈は成り立たないし、もう10年遅いと、注釈(むかしツンデレ表現というものがあって…という注釈)が必要になってしまう。そういう意味では、俳句も散文と同様、時代の産物だ。

梅雨に入るいつもの駅にいつもの人

季題「梅雨」。「いつもの駅にいつもの人」がいい。これが「いつもの人が駅にいて」だと、街中でよく見かける人を、きょうは駅で見かけた、という意味になってしまう(ストーカー?)。
他の季題、例えば「若葉風」とか「秋日和」でもいける(つまり、季題が動く)ような気がするのだけど、この句はこの句で、梅雨時の、鬱陶しいのだけれど、それでいて寒く寂しい心持をすくいとって詠ったものとして納得できる。毎日雨が降るのだけど、通学か通勤かでいつもの駅のいつもの場所に並んで電車を待つ。面倒というか厭わしく感じるのだけど、ふと、いつも見かける人も同じ電車を待っているのが目に入る。あぁ、この人も、きょうも同じように電車を待っているのだ、という心持。

風鈴に機械の風の来ては去る

季題「風鈴」で夏。「機械の風」がいい。エアコンとか扇風機とか言わずに(それだと季重ねになるからでもあろうけど)、あえて、つるっとしてとりつくしまのない「機械の風」としたことで、本来の趣旨というか用法から切り離された状況でちりんちりんと鳴っている風鈴の困惑?ぶりがよくわかる。
「機械の風」って、口語でも言えそうで言えない表現だし、まして俳句にズドンと持ってくるのは、なかなか思いつかないところ。

(句帳から)

明易やいまみた夢をもう忘れ
十薬の広がつてをる線路際
駅前の生産緑地栗の花



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津原泰水『ヒッキーヒッキーシェイク』(ハヤカワ文庫、2019) [本と雑誌]

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話がどんどん飛んでいく。省略されている部分が多く、想像で補って読むので、映画を見ているような感じ。ついていくのが大変だが、登場人物の描き方に作者の愛情が感じられて(それぞれの居場所を用意しているところや、必要以上に持ち上げたり落としたりしないところなど。そういう場面では、不意にゆっくりになる)、この人最後はどうなるのだろう?という興味で最後まで読ませる。

 
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