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松家仁之『火山のふもとで』(新潮社、2012)【一部ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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文庫になるのを待たずに、すぐに読めばよかった本シリーズ第2弾。
ことし最初に読んだこの1冊が、今年のベストワンになるはず。大げさにいえば、小説という形式に、まだこのような可能性が残っていたことがとても嬉しい(しかも、何かすごく新しいことが試みられているわけではないのに)。

一つ一つの場面が、すみずみまでピントが合った風景写真のように、色彩、音、におい、温度などこちらの五感を総動員してくれるのに、それがちっともうるさく感じられないことに感心する。よくよく慎重に考えて正確に選び抜かれたことばで綴られた物語だからなのだろう。

また、結末のつけ方に感服する。この物語はどのように終わるのだろうと心配させておいて、こういう着地をしてくれるのですね。終わってしまうのがもったいなくて、最後の2章ぐらいを1週間かけてなめるように?読んだ。

個別に立ち入って感想を述べると、麻里子の造形と雪子の造形が周到であること。ひとことで言い表している部分もあって、たとえば

(以下引用)
麻里子の笑顔は、向けられる先が誰なのかいつでもはっきりとしている。ところが雪子の笑顔はただそこににじみ出て、誰が受けとろうが受けとるまいがかまわないといった風情に見える。それは雪子の不思議なおだやかさがどこからやってくるのかわからないのと似ていた。(p.147)
(以上引用終わり)

のようなところは、それ以外の表現に置き換えるのが難しいほどの説得性がある。その雪子が最後の1ページで(p.377)徹に向けるひとことは、これはもう参りましたとしか言いようがない。引用するのがもったいないので、ぜひ本屋さんでこの本を買って読んでほしい。

また細部に立ち入ると、例えば、徹と麻里子の大事な場面(pp.78-9)で棚から取り出すLPがブラームスのピアノ協奏曲第2番で、しかも徹はB面をかけるのですね。つまり、意図して第3楽章から聴いているわけです。できすぎというか…しびれる。もっともこの場面に限らず、ここに出てくる人たち全員の文化資本の蓄積ぶりってすごすぎませんか、と(感心しつつも)僻みたくなることも事実。

さらに、長い時間の経過とともに、徹のものの考え方が変化していくことも見逃せない要素で、かつてあれほど違和感を感じていた船山圭一の設計が、「当初の計画どおり、あるいはそれ以上の広がりをもって着実に機能してい」ることを肯ったり、「初めての夏に、毎日のように聴いた声。しかし、どうしてもその鳥の名前が出てこな」かったりする。こういうところも、この小説の説得性に寄与しているのだと思う。

  




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番町句会(12/14) [俳句]

今年の納め句会。お題は「潤目鰯」「顔見世」。

(選句用紙から)

顔見世の役者が朝の食堂に

季題「顔見世」で冬。「顔見世」は京都南座で毎年11月に開かれる興行で、ことしは特に南座発祥四百周年なのだそうで、盛大な興行だったことだろう(残念ながら、行ったことがない)。
で、当節は役者も江戸から京都へゆくことになるので、その宿として松竹が割り当てたホテルなり、それぞれの定宿なりにずっと逗留するわけで、同じ宿にたまたま泊まっていた客が朝食をとっていると、ふと顔をあげた先に役者の姿が見える、という一句。そこで誰も声をかけたりせず、静かに朝食の時間が進んでいくのは当然のお約束。

自転車のカゴから葱が突き出して

季題「葱」で冬。ビニール袋やエコバッグから突き出している葱は目に留まりやすいので、しばしば詠まれることになる。したがって、どこかに類句を見つけることができるかもしれないが、あえて見たままを詠んだものだろう。「突き出せる」でなく「突き出して」なので、それでどうなったの、という続きがあるのだけど、上五には何も指示がないので、「そのまま走り去ってしまった」と受け取るのだろう。


(句帳から)

湖の沖に島影夕時雨
冬の月右岸左岸の遊歩道
顔見世や橋渡るとき風強く

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