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角幡唯介『アグルーカの行方』(集英社文庫,2014) [本と雑誌]

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もっと早く読めばよかったと悔やまれる一冊。

旅や冒険の記録を面白く書くことは、とても難しい。書き手にはわかっている面白さが、読み手には自明ではないからだが、それをクリアしたものだけが作品として生き残っていくことになる。だから、新しい書き手にはなかなか手を伸ばしにくいのだけど、これは逆に、読むのが遅かったという気にさせられる傑作。
(すでに多くの賞を受賞しているのだから、分かりきっているではないかと言われればそうなのだけれど)

内容について改めて説明するのも余計かもしれないが、北西航路を探索に出て行方不明になった1845年の英フランクリン隊の足跡を実際に追っていくものだが、まずその構成の妙に感心させられる。つまり、史実を追って、現実の冒険(調査)と過去の記録が交互に現れていくのだ。その繰り返しの中で、今なお謎とされているいくつかのことがらについて、著者の考え方が順番に示されていく。むろん著者は結論を得た上で書き始めているのだけど、わかっていても、著者といっしょに推論をしていくような気分を味わうことができ、たいへん楽しい。

また、その調査も、さまざまな障害に阻まれながらも、現場をきちんと踏んでいこうとする姿勢が貫かれており、単に「仕事」として行われる調査とは趣を異にする。ジョアヘブンの村で訪ねたルイ・カムカックのこの言葉(312頁)は、何気なく書かれているが、著者が引き出した名言というか、著者が叫びたいことを相手が代弁してくれているのではないだろうか。
(以下引用)

みんな机の上で資料をひっくり返しているだけさ。こんな遠くまで来る者はほとんどいないんだよ。

(以上引用終わり)

冒険の記録は数多くあり、過去の事跡に関する研究も数多くある。しかし、両者をこのような形で融合することで、この作品は別の価値を得たといえるだろう。

 次に、著者は冒険家といわれる人であるからして、実際にさまざまな危険を伴う何かを経験して現在に至っているわけなのだけど、登山にせよ、探検にせよ、そうした危険を伴う行動に人がのめりこんでいく理由について、自分の経験をまじえて説得的に説明していることに感心する。
 説明によれば、それは、そのような命の危険が、逆に「生命の実体」とでもいうべきものを照らし出し、人に居場所を与えるからだ、といったことになる。
 それまでの探検の過程で散々な目にあったはずのフランクリンが、なぜ高齢にもかかわらず再び危険を求めて探検に出たのか、という点についての以下の説明は、非常にわかりやすくハラに落ちるものだった。

(以下引用)
分かりにくいのは彼が、他人には悪夢にしか聞こえないようなこのような体験にも懲りず、その後ものこのこと北極探検に繰り出したことだろう。おそらく彼は最初の体験で荒野に魅せられてしまったのだろう。不毛地帯のただ中で生死の境を彷徨ったにもかかわらず、ではなくて、生死の境を彷徨ったからこそ彼はまた探検に出かけたのだ。ふらつき、腐肉を漁り、靴を食い、贅肉が削げ落ちたことで、圧倒的な現在という瞬間の連続の中に生きるという稀な体験をすることになった(…)初めて生きるものとしての強固な実体が与えられることになった。(429頁)
北極の氷と荒野には人を魅せるものがある。一度魅せられると人はそこからなかなか逃れられない。それまでふらふらと漂流していた自己の生は、北極の荒野を旅することで、始めてバシッと鋲でも打たれたみたいに、この世における居場所を与えられる。それは他では得ることのできない稀な体験だ。(432頁)

この部分を読んでいてふと思ったのが、ジョン・クラカワーの「荒野へ」(集英社文庫)だ。あの話でクリス・マッカンドレスが人里を離れた荒野にのめりこんでいく理由が、上のように考えるとよく説明できる。

控えめで抑えられた筆致といくぶんの諧謔味も、この本を好ましいものにしている(自分を突き放して笑うことができるのは、1人称で本を書く上では重要なところだと思う)。また、当時のイギリス的なものに対する適度な距離(持ち上げもせず、落としもしない)もいい。限界を示しつつ、否定はしないということは、けっこう難しい。これは、われわれもまた現在の「時代」の枠の中でしか生きていないという認識があるからできることだと思う。

最後に、地図がある程度充実していることは、読んでいく上で便利なだけでなく、地図自体が読書の対象と考える私にとっては、とてもありがたい(本棚から別の地図帳を持ち出してきて参照しなければならないようなノンフィクションは、けっこうある)。

 


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第121回深夜句会(6/21) [俳句]

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(選句用紙から)

ふるへてはさらにねぢれんねぢればな

小さく細い花であるのに、ちゃんと勢力を拡大して生命力にあふれているのがねじ花なのだけど、それが風でふるえるたびに、いっそうねじれていくように見える、という句。ピンクや紫の微細な旗のような花がぐるぐるねじれていて、それが風に揺れているというところが、実景でありながら少しファンタジーめいた雰囲気をかもしだしている。


オリーブの花の終ひの日曜日

「オリーブの花」で夏なのだろう。よく見ないと咲いていることに気づかないような小さな白いオリーブの花が、ようやく茶色く干からびるようにして咲き終わると、やがて実がつくのだけど、いつ咲き始めていつ咲き終わったのか判然としないようなオリーブの花の「終い」が下五と響きあう。たとえばこれが「山桜花の終ひの日曜日」とか「山茶花の花の終ひの日曜日」だと、どうもしっくりこない。


(句帳から)

予備校の窓より見ゆる茅の輪かな
総督府ゆつくり回る扇風機
梅雨寒や夜の水銀灯の色


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