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川北稔『砂糖の世界史』(岩波ジュニア新書、1996) [本と雑誌]

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ウォーラーステインの「世界システム論」の読者なら、とりたてて大きな発見があるわけではないのだけど、私たちの生活に深くかかわる砂糖が、どのように世界商品に成長していったかという過程がとても面白い。それは同時に、近代のイギリスの経済史そのものということもできる。

指摘されている現象自体には同意だが、理由について疑問な点がひとつ。
同様の世界商品に成長したタバコのプランテーションと砂糖のプランテーションを比較して、タバコ農場主は現地に定住して現地の社会資本を幾分なりとも整備した(だから本土では社会資本が発達した)のに対して、砂糖農場主はイギリスに住まっていて、現地には全く無関心だった(だからカリブ海諸国では社会資本が発達しなかった)という説明になっていて、その理由を気候の差に求めているのだけれど、それだけなのかという疑問は残る。ここのところ、ちょっと話が単純すぎないか。

 
 

第114回深夜句会(11/16) [俳句]

(選句用紙から)

自転車のわづかに残り虫の声

季題「虫の声」で秋。「わづかに残り」がいいですね。場所についてとやかく説明しなくても、駅や学校、工場などの「大きな自転車置場」であることは明らか。朝や昼間はたくさんの人が自転車をとめるので、虫の声なんか聞こえる余地がないのだけど、夜になって大半の利用者が帰ってしまい、自転車がまばらになると、敷地の中か外のどこかから、虫の声が聞こえてくる。


スナックの客の熊手の忘れ物

季題「熊手」で冬。ここでいう熊手は、落葉掃きにつかう実務的な熊手ではなくて、酉の市でもとめてきた縁起物の熊手であろう。詠み手はスナックの客。居合わせたほかの客が帰ってしまったあとをふと見ると、その客がさっき酉の市で買ってきて、お姉さんに自慢気に話していたその熊手が、忘れ物としてぽつんと残っている。
この句を楽しもうとすると、現在(2017年)における「スナック」という商売の世間的位置(大げさだが)を理解しないといけない。あまり思ったとおりのことを書くと、現にこの商売をされている方のご迷惑になってしまうのだけど、少なくとも、勤め人がこぞって足を運び、かわりばんこにマイクを握りしめ、棚にはオールドのボトルがずらっと並んでいるなどという風景は過去のものになりつつあるように思われ、そうした中でスナックに(少なくとも時々は)通っている詠み手と、顔はときどき見かけるけれども名前は知らないその客と、そのいずれもが、少々時代から取り残された存在であるところが、この句に味わいを与えている。

(句帳から)

アーケードの欠けたるところ冬の月
我慢して一層ひどく咳きこんで
荷物用エレベーターの聖樹かな

 
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藤本朝巳『松居直と絵本づくり』(教文館、2017) [本と雑誌]

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福音館書店といえば松居直、松居直といえば福音館というぐらい有名な編集者で、石井桃子さんや瀬田貞二さんたちとともに日本の児童文学の一角を切り開いたパイオニアでもあるこの人の仕事を、若い児童文学研究者がたどっていく本。松居氏へのインタビューも収録されていて、それが本文の内容と一部かぶっているのはちょっと残念だけど、この記録自体は貴重で、後世に残されるべきものと思う。

いちばん衝撃的なエピソードは、創刊直後の「こどものとも」で、ある有名な文学作品をとりあげる(絵本にする)ことを決めた松居氏が画家に頼みにいく場面だ。売れっ子であったその画家は、しかし病に臥せっていて、松居氏が練馬区の都営住宅を訪ねてご夫人に用向きを伝えると、「○○(その画家の名前)は伏せっておりますので、絵が描ける状態ではございません。」と言われてしまう。しかたなく引き下がろうとすると、奥から「その仕事やる、待ってもらえ」と声がかかり、画家は布団の上に上半身を起こして、「××××(その文学作品の作者)、やりますよ。その仕事やれるなら死んでもいい」と松居氏に言ったという。
(pp.46-47)
この話が衝撃的である本当の理由は、この作品が絵本として実現した直後、この画家がほんとうに亡くなってしまったことにある。本書では「いわば、○○さんの最期の作品です。病を押して描き上げたのには、よくよくの思いがあったからに違いありません。」と控えめに書かれているが、ちょっと戦慄を覚えるような話である。

付言すると、絵本化されたその作品自体が、xxxxが死の床で最後まで手を入れていた作品(かつ、私の好きな作品)なので、何かの因縁ばなしのようで、二重にゾクッとしてしまうところである。

さらにさらに、ある画家がこの絵本を読んで絵本をつくろうと決意し、松居直を訪ねてきて「こどものとも」からデビューする話(pp.140-142)とか、後年自らも絵筆をとって、同じ文学作品を別の出版社から絵本化したというエピソード(pp.48-49)が紹介されていて、よくよく因縁めいた作品でもあると感じる。

こうしたエピソードを措くとしても、巻末に掲げられている「松居直編集による月間絵本『子どものとも』一覧(1~149号)」を眺めると、きら星のようなというのか、今でもよく知られている作品がずらりと並んでいて、すごさを感じる。

 
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番町句会(11/10) [俳句]

半年ぶり?いやそれ以上欠席が続いていたように思われ(自分のことについて「思われ」は変なのだけど、あまりに記憶が遠いので)、きょうは10人が参集。
きょうの席題は「柊の花」「鷹匠」。毎度のことだがうむむ。

(選句用紙から)

浜離宮へ晴れて鷹匠補となりて

季題「鷹匠(たかじょう)」で冬。鵜飼いを仕事とする鵜匠と同様に、鷹を育てて鷹狩りをするのだけど、宮内庁にはいまでもそういう役職があるとかで、ここでいう「鷹匠補」というのはその役職のひとつなのであろう。どういう経緯でこの世界に入ったかわからないが、さまざまの苦労の末に「晴れて」鷹匠補という役職をいただき、そのお披露目だか発令式だかのために鷹を連れて浜離宮へおもむく、といった句意か。「晴れて」が冬の東京の晴れた空を連想させて好ましい。

飛び上がれば又その石に石たたき

季題「鶺鴒(せきれい=石たたき)」で秋。石たたきは鶺鴒の異名で、長い尾を振る様子が石をたたいているように見えるのでそのように呼ばれるそうだが、どこにでもいる鳥ではあるが、ここでは川原などで、ふと飛び上がった鶺鴒の着地点である大きな石に、すでに先客がいた。

(句帳から)

山茶花の咲き疲れたる小庭かな
肩車十一月の日曜日
鷹匠の終始無言でありしかな
 
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