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岩波文庫創刊90年記念「私の三冊」(『図書』臨時増刊) [本と雑誌]

古今東西の名著が母語で読めるのはとてもステキなことだと思うので、日本スゲー派のひとびとは、岩波書店の刊行物を(少なくとも岩波文庫を)もっと誇りに思ってもよさそうなものだけど。

いつもの通り、「各界を代表する皆さまに」アンケートをお願いしたもので、
今までに読んだ岩波文庫のうち、
・今日なお心に残る書物は何か あるいは
・ぜひとも他の人びとにも勧めたいと思われる書物は何か
三点を選び、あわせてそれぞれに短評を書き添えてほしいというもの。

読者としては「ああ、この人がこんな本を選んでいるのね」と楽しみに読むのだけど、「この人なら、そりゃ確かにこれを選ぶだろうね」という順当な(従って面白くない)選択もあれば、「えっ、この人がこんな本を推しているのか」という驚きの選択もある。

後者の例として、坪内祐三氏が『オーウェル評論集』を挙げていること。坪内氏が開高健を愛読していたら、その開高健がオーウェルのエッセイの素晴らしさについて語っていたので、それが日本語で読める日を待っていたと書かれているのだが、坪内祐三氏とオーウェルはどうにも結びつかないし、オーウェルの評論のかなりの部分は岩波文庫に収録される以前から日本語で出版されていたわけなので、この回答は何だかよくわからない。

選ばれた本のなかでは、自分だったら最初に挙げるであろう『自省録』を6人もの人が挙げていることが少し嬉しい。ちなみに宇野重規さん、清家篤さん、旦敬介さん、野崎歓さん、山口範雄さん、四方田犬彦さんの6人。

では、このアンケートのように3冊挙げよと言われると、上掲『自省録』以外の2冊は何になるのか、ちょっと迷う。
入りそうなものとしては、『アメリカのデモクラシー』『暗黒日記』『イギリス名詩選』『石橋湛山評論集』『イスラーム文化』『オーウェル評論集』『虚子五句集』『三酔人経綸問答』『ベートーヴェンの生涯』『福翁自伝』『森の生活』『闇の奥』『ロビンソン・クルーソー』『忘れられた日本人』あたりか。もっとも、『ロビンソン・クルーソー』は岩波文庫でなく、岩波少年文庫で読んだのだけど、結構難しかった記憶が。

3冊セットとしての選択がもっとも自分に近いものとしては、
片山善博さんの『生の短さについて』『石橋湛山評論集』『福翁自伝』
清家篤さんの『文明論之概略』『寺田寅彦随筆集』『自省録』
って、どちらも慶応義塾にご縁のある方ですな。

もっとも、回答者の多くは80周年や70周年のときにも同様のアンケートを求められていると思うのだけど、その際の答えと今回の答えがそんなに変わる性質のものとも思えないので、どうやって回答に新味を出そうとしているのか、それらを照らし合わせて読んでみたい気もする。

番町句会(4/14) [俳句]

締切時間を15分超過して会場に到着(移動中に遅参を連絡し、特段の思し召しで待っていただいている)し、会衆のみなさまが既に投句を終えて見守る中、兼題「春の蠅」に脊髄反射で必死に対応。将棋早指し選手権のようだ。

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(選句用紙から)

遠くあり近くありして春の雲

これ、私なら「遠くなり近くなりして」とやってしまうことが確実。「遠くあり近くあり」って、一見何でもないようだけど、なかなかできない、すばらしい表現。雲が(または自分が)動いているのでなく、遠くにも近くにも雲があります、と言っているわけだ。比較的ゆっくり動いているか、ほぼ静止しているのだろう。このたゆたう感じが、まさに春の雲なのですね。もっとも、「凍雲」なんていう季題もあって、冬の雲もじっと動かないことがあるにはあるけれど。

どの川も富士の雪解や音高き

季題「雪解け」で春(早春)。富士の山麓では、4月でも雪解水がごうごうと流れているのだろう。どの川「も」ということは、大河に沿ってではなくて、小さな流れをいくつも越えて、等高線に沿うようにして裾野を歩いているのだろうか。


(句帳から)

ガラス戸の内側にゐる春の蠅
制服に手が生え足が生え四月
小径を麓へたどり春深し

冬はどこへ行った? [俳句]

光が丘のIMAホールへ行く道すがら、地図を眺めていてふと気付いた。

光が丘地区に「春の風小学校」「夏の雲小学校」「秋の陽小学校」という名前の小学校があるのだけど、なぜか「冬の○小学校」だけがないのだ。その代わり?なのか「四季の香小学校」というのがある。

hikarigaoka_map.png

なんだこれは。
春、夏、秋ときたら当然冬じゃないのか。
練馬区教育委員会が、冬は小学生にふさわしくないと考えたのだろうか…電話して聞いてみようか…

と思いながらもう少し地図を眺めていると、それぞれの小学校と同じ名前の公園が近くにあるので、どうやら、「地名がそうなっているので、それに合わせて小学校の名前もつけちゃった」みたいだ。
(ちなみに、練馬区のウェブサイトを見てみたら、この4校はもともと8校あった小学校を統合再編して2010年に開校した模様で、それまでは単に「第1小学校」から「第8小学校」だったらしい)

そうすると、この疑問を解くには、光が丘地区が米軍から返還された当時、どうしてこの(冬のない)地名を創設したのかを調べないといけないのだけど、ちょっと難しそう。練馬区の図書館とかにいけば調べられるのかな。

この気持ち悪さを掘り下げて考えると、原因は二つあって、
 ・冬がないことの気持ち悪さ(冬が排除されているように見えることへの腹立たしさ)
 ・春・夏・秋・四季という並びの気持ち悪さ(MBA風にいえば、MECEでないことの気持ち悪さ)
ではないかと。

余談だが、冬にちなんだ小学校の名前を考えるとしたら何がいいか。ここは俳人の腕の見せ所なのだけど
 ・冬の星小学校
 ・冬の晴小学校
 ・冬の森小学校
なんかどうでしょう。

 

第107回深夜句会(4/13) [俳句]

初めて参加される若い男性が、「この句会が生まれて初めて参加する句会」だとおっしゃるので、会衆一同大歓迎。自分の「はじめての句会」っていつだったのだろう。1980年の秋から冬にかけてのどこかだと思うのだけど、記録もないし、もう全然覚えていない。こんなに長く俳句を続けるとは思ってもみなかった。

(選句用紙から)

桃色の少し差したる桃の花

うぐいすを見て「うぐいす餅の色だね」と言うジョーク(?)があるけど、桃の花―ここでは白い花なんだろう―をよく見ると、そこにうっすらと桃色が差している。ここでは虚子の「白牡丹といふといえども紅ほのか」が連想されるが、白い花といってもかすかに赤みがかっていて、その赤の色が他ならぬ桃色だ、というのは、眼前の事実であるので、言葉遊びのみに陥ることをまぬかれている。

焦げ目よし花の餃子と云うべしや

季題「花」で春…ということになろう。花の宴とか花見酒とはいうが、花の餃子って何なのということだが、花見に誰かが持ってきた焼き餃子の焦げ目を見て、参加者がたわむれに「これぞ花の餃子だ」などと言い合っているのだろう。「焦げ目よし」の藪から棒加減も、たわむれにそう言っていることを示しているのだろう。「云うべしや」の「べし」は適当(そのように言いなすのがよい)の「べし」であろうか。

(句帳から)

春の星いただいてをる山地かな
ゆでこぼしながら低唱春深し