SSブログ

増田俊也『七帝柔道記』(角川文庫、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

nanatei.jpg

「初めての作家」3連発の最後に、すごい作品に出合ってしまった。早くもことしのベスト1確定かもしれない。ページをめくりながら、終わりに近づくのがもったいない思いをするのは久しぶり。

舞台は札幌、時代は昭和の終わりごろなのだけど、こういう世界が実在したのですね。"想像を絶する"という陳腐な表現しか思い浮かばないぐらいすごいことが、ふつうのキャンパスライフ(死語?)を送る一般学生のすぐ隣で行われていることに、まず驚く(体育会の他の部との比較も描かれているので、体育会だからということではないでしょう)。柔道部員の一人ひとりのキャラクターも、ていねいに描かれていて楽しめる。

かといって、選び抜かれた人々が世間から隔絶された高みですごいことをやっている、という描かれ方ではなく、ときどき出てくるふつうの学生やふつうの市民(これがまた魅力的)とのやりとりに、何ともいえない味わいがある。

また、小説としてすごいところは、凡百の青春小説にありがちな、そこそこのハッピーエンドをまったく用意していないところ。むしろ、どん底ともいえる状態で終わっている。それにしても、こういう終わり方ってありなんだろうか。未回収の登場人物や挿話がいくつかあるし…と思いながら解説を読むと、一応続編があるのですね。これは一刻も早く読みたい。

小説といっても作者の実体験を描いているので、エピソードの積み重ねに不自然さがなく、とても受け入れやすい。こうした場合、むしろ無数のエピソードのどれを採り、どれを採らないか迷うと思うのだけど、よく考えて選ばれているようで、「あるべきエピソードが、あるべき場所にある」感じがする。作者自身の経験が作品化されたという成り立ちは藤谷治さんの『船に乗れ!』とも共通しており、描かれている世界は全然違っても、特異な求心力という点では同じ印象を受ける。

 



第106回深夜句会(3/23) [俳句]

(選句用紙から)

瀬の中の小さき淵や春の水

まだ上流の、歩いたり走ったりしている川なのだろうが、そのたぎる瀬のなかの、ある一部分が、そこだけ傾斜が緩いのか、水が比較的静かでなめらかに移ろっている。それを「瀬のなかの淵」と切り取ってきたところにこの句の眼目がある。またその「小さき淵」に移ろっている水の色や、映り込んでいる空の色なども想像されて、率直にいい句だなあと思う。


夜を徹して読了したる辛夷かな

季題「辛夷」で春。手紙とか訴状だと、さすがに夜を徹して読むほど長くはないだろうから、まあ小説であろうか。明日の用事に差し支えるから途中でやめて寝なくちゃと思いながら、とうとう朝までかかって全部読んでしまった。そこで寝床にもぐりこむのか、それとも支度して出かけるのかわからないが、そうしている視線の先に、ふと辛夷の白い花がちらちらしているのが見えた。朝の光を受けて白く揺れている辛夷の花が、さきほどまで夜を徹して読んでいたものの内容との差において、視覚的にそうである以上に心理的にまぶしく感じられた。
「読了したる」の後で切れるのだけど、下五が「かな」で終わっているので、やや落ち着かない。他にうまい言い方があるのかもしれない。


(句帳から)

うららかや電車並走してゐたる
入園式のご案内貼り冷蔵庫
シースルーエレベーターの日永かな

 

生への列車・キンダートランスポート(『世界』2017年3月号) [本と雑誌]

細野祐二さんの「東芝・債務超過の悪夢」を読もうと思って買ったのだけど(いゃ、そっちも面白い内容だったのだけど、「正味運転資本調整」のところがよくわからない(財務諸表論では出てこなかったのだけど、最近のルールなのか、それとも会計士さんしか知らないルールなのかな?)ので、ちょっと引っかかる)、戦前戦中のドイツでこんなことが行われていたとは知りませんでした。あの時代状況で、危険を顧みずというべきか、すさまじい行動力というか、頭が下がるとしかいいようがない。

クエーカーの人々のプレゼンスというのは、イギリスやアメリカではむろんのこと、大陸においても、これほどに大きなものなのですね。

番町句会(3/10) [俳句]

きょうのお題は「苗木市」。
これが難しいのは、あまり実景に接したことがないから。

(選句用紙から)

灯籠に寄りかからせて苗木市

季題「苗木市」で春。寺社の門前とか境内なので、手ごろな場所に「灯篭」があるわけだが、その灯篭に寄りかからせるようにして、すこし背の高い苗木が売られている。根元が鉢でなく、丸くつつまれていて、また、そこそこ背が高い苗木であるから「寄りかからせる」ことになるわけで、そんな無造作に置かれている苗木の様子がわかる。

乗り継ぎを待つ空港の日永かな

季題「日永」で春。乗り継ぎ便を待つ間、小さな空港だと何もすることがない。海外での乗り継ぎなんかだと、ことばもわからないし時間つぶしのネタもないしでいっそう手持ちぶさたになる。ガラス張りの向こうには、空港のさまざまな車両や施設が見えるが、それらにも春の日が当たっている。日ごろあわただしい人ほど、乗り継ぎの手持ちぶさた感が強いのではないかと思うが、それに「日永」という季題がよく調和している。

飯場にもクロネコの来て日永かな

PCな日本語だと「作業員宿舎」になるのだろうか。そこへ宅急便のトラックがやってきて、また去っていった。ただそれだけなのだけど、「住宅」でも「商店」でも「会社」でもない寄宿舎のような場所に、宅急便のトラックがやってきて生活上必要なものを置いて帰っていく、という発見(発見とまでいえないかもしれないが)がこの句の眼目。ただ、「も」が散文的で、他の言い方がなかったか検討の余地がありそうな。


(句帳から)

駅までのシャッター通り苗木売る
月朧イギリス大使館の庭
春宵や角のビストロまず灯り
→まづ灯り