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加納朋子『我ら荒野の七重奏』(集英社、2016)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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評判の高い新刊なのだけど、なじめなかった。理由は三つ。
・説明になってしまっていること。
・最後の設定(ちょうどぴったりな曲が見つかること)が都合よすぎること。
・音楽(楽曲)に対する思い入れが感じられないこと。

お芝居でいうと、役者さんの台詞や動作で表現してほしいことを、ト書きで一から十まで説明されている感じ。うん説明はわかったから、それで何がどうなるのかと期待して待っていると、説明だけで終わってしまう。説明を全部取り去ってしまって、台詞だけ残しておいても伝わらないものだろうか。そこを伝わるように書くのが作家の力量というものではないかと。

小説なので、どのような設定でも別にかまわないのだけど、弦楽四重奏ならともかく、木管七重奏の曲がそう都合よく転がっているわけがないでしょう。結局、設定が無理だと読者が共感できないので、小説の魅力を損なってしまうことになる。残念。

息子の演奏に涙を流す母親が何度も描かれるのだけど、それがどんな曲なのかほとんど描かれていないので、共感できない。ファゴットのソロはどんなメロディーでどのくらい続くのか?ホルンやクラリネットはどうしているのか?そもそも短調なのか長調なのか?ほとんどわからない。これでは、やはり思い入れの余地がない。音楽の解説書ではないので曲の内容に深入りする必要はないにしても、どんな曲をどんなふうに演奏しているのかわからないのは、吹奏楽を題材にした小説としては、やはり物足りない。


番町句会(11/11) [俳句]

きょうの兼題は「蕎麦刈」「鷲」。蕎麦刈りを目の前で見たことって、なかったような…

(清記用紙から)

蕎麦刈るやはるか低きに村の屋根

季題「蕎麦刈」で冬。山の斜面の段々畑で蕎麦刈りをしているのだけれど、ふと目を転じると、その段々畑のはるか遠く、ではなく、はるか下のほうに、村の家々の屋根がぽつんぽつんと見えている。
司馬遼太郎の小説(タイトルを失念した)の冒頭に、南信州のどこかの村についてのそのような描写があるけれど、まさにその世界である。
(もっとも、旧南信濃村の場合、山の上のはるか高いところに集落がある、不思議な風景なのだけど)

蕎麦刈るや虫やしないにメロンパン

それなりに広さのある蕎麦畑なのであろうか。蕎麦刈りの途中でちょっと休憩をとなったのだけど、そこで虫やしないにメロンパンをいただいた。握り飯とか海苔巻とかあんぱんじゃなくて「メロンパン」だというところにこの句の面白さがあって、専業でやっている老農夫だったらメロンパンなんか頬張らないだろうから、メロンパンを買ってわざわざ畑に持って行く人といったら、若い人であろうか。ひょっとして素人が、面白半分でやっているのかもしれない。そんな蕎麦刈りの様子がうかがわれる。

鷲が提げゆけるだらりとしたるもの

季題「鷲」で冬。鷲がその爪に獲物をとらえて運んでいくのだけど、その獲物はすでに動きを失って、だらりとぶら下がっているように見える。ちょっと前まで生きて動いていたであろうその小動物を「だらりとしたるもの」と捉えたことで、食う側食われる側の非情な戦いがかえって際立っている。

(句帳から)

蕎麦刈を了へて集合写真かな

横田庄一郎「チェロと宮沢賢治―ゴーシュ余聞」(岩波書店、2016) [本と雑誌]

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「セロ弾きのゴーシュ」といえば、宮沢賢治の童話の代表作のひとつである。そしてその作者である賢治は、たいそう音楽好きであって、自らもチェロを弾こうとしていたことが知られている。本書は、賢治が実際に、どのくらいチェロを弾きこなしたのか、上京して手ほどきを受けたというが、それはどのような状況だったのか、といった「宮沢賢治とチェロ」にしぼった論考で、大変面白く読める。

生前の賢治を知っている人々が存命のうちにこうした記録を残しておくことは、賢治の正確な姿(神格化されず、また不当な取り扱いもされない)を知るためには重要なことで、文学者や文芸評論家でなく、音楽について詳しいジャーナリストがこのように丹念に取材を重ね、記録を残してくれた(初版は1998年で、本書は岩波現代文庫からの再版である)ことに感謝したい。

本書の指摘ではっとさせられたのは、「セロ弾きのゴーシュ」についての、次の部分である。
(以下引用。128ー129頁)
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このあと仲間のみんなが「よかったぜ」とゴーシュにいうと、向こうでは楽長が「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな」といっていたと、賢治は書いている。
ゴーシュはからだが丈夫だからできたのだが、賢治はあれほど熱中したチェロの独習半ばに病に倒れ、そうなることを夢見ながらもとうとうできなかった。唐突に出てくる「普通の人だったら死んでしまふからな」というくだりは、まさに死んでしまう賢治が書いているのである。普通の人とは、これを書いた賢治自身のことではないか。死ぬ少し前まで『セロ弾きのゴーシュ』の原稿に手を入れていた(宮沢清六『兄のトランク』)ことを思い合わせると、このくだりには感無量という以外に言葉が見つからない。
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(以上引用終わり)

賢治は、死の直前までこの作品に手を入れ続けていて、現在われわれがよく知っている文面は、その最終形だというのだ。
もしそうだとすると、確かに、物語の終わりちかくにあるあの一節は、ニュアンスが全く違ってくる。
校本全集をあたって、まず、現在われわれが目にする文面をもう一度確認。

(ここから引用。「校本宮澤賢治全集第10巻」(1974、筑摩書房)219-234頁)
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「ゴーシュ君、よかったぞお。あんな曲だけれどもここではみんなかなり本気になって聞いてたぞ。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」
 仲間もみんな立って来て「よかったぜ」とゴーシュに云いました。
「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」楽長が向うで云っていました。
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(以上引用終わり)

この部分が、初稿では以下のようだったというのだ。

(ここから再び引用。前掲校本全集501-502頁)
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「ゴーシュ君、よかったぞお。一週間か十日の間にずいぶん仕上げたなあ。十日前とくらべたらまるで赤ん坊と兵隊だ。やろうと思えばいつでもやれたんじゃないか、君。」 
仲間もみんな立って来て「おめでたうおめでたう」とゴーシュに云いました。
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つまり、確かに「いや、からだが丈夫だからこんなこともできるよ。普通の人なら死んでしまふからな。」の一節は、初稿にはなくて、あとから加えられたものだったのですね。

それでは、初稿はいつ書かれ、あとからあの一節が書き加えられたのはいつなのだろうか。初稿は、賢治が病気で倒れる前に書かれ、病気になってからあの一節が加えられたのだろうか。
どうもそうではなく、初稿も病気になってからのようだ。前掲「校本全集」によれば、現存草稿32枚のうち22枚目には「東北砕石工場花巻出張所用箋」の裏面が使われているので、賢治のためにこの出張所が開設された1931年2月以降にこの部分が書かれたことは明らかである※。賢治はこの年の9月に東京へ出張中にで倒れて花巻に戻ってから再び病臥生活となり、1933年9月21日に亡くなっているのだけど、おなじ22枚目の表面には、1933年4月2日の同級会(同窓会)への欠席連絡の下書きが残っているという(483頁)から、この時期に書かれた可能性もある。そうすると、さきほど引用した箇所は全体の最後の部分、つまり草稿の31枚目と32枚目にあたるので、初稿が書かれた時点(1931年2月から1933年9月までのどこか)において、既に賢治は死を強く意識していたと思われる。そこへさらに、「いや、からだが丈夫だから…」と加筆して現在の形に修正した賢治の絶望感(といっていいのか)考えると、粛然とせざるを得ない。

(※ただ、この作品は必ずしも頭から順番に書かれたわけではなく、最初に書かれたのはねずみのエピソード、次が猫のエピソードの一部、三番目がかっこうのエピソード、四番目が猫のエピソードの一部、五番目がそれ以外の部分であることがわかっている)。

この他にも、冒頭でゴーシュをいびり倒す「楽長」のモデルがあの人――クラシックの世界では超有名なあの人――ではないか、とか、野ねずみのこどもが入った「チェロの孔」とは実は、とか興味深いエピソードがいっぱい。賢治ファンならずとも読んで損はない一冊。