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第87回深夜句会(7/23) [俳句]

(選句用紙から)

梅雨茸の朽ちしところにまた生ひぬ

季題「梅雨茸」で夏。梅雨の季節にに生えてくるキノコ、と書くと「この季節に栽培・収穫された椎茸やしめじですか?」と聞かれてしまいそうだけど、そうではなくて、地面や建物の予期せぬところに生えてくる、できもののようなキノコであって、むろん食用になるものでもない。
で、最初は白とか赤とかの色だったその梅雨茸が時間とともにぐずぐずに腐朽して、もう消えたかと思っていたら同じ場所からまた生えてきたというのだ。地面の同じ場所でもいいが、建物の同じ場所だとすると、これは面白い。つまり、「最初に生えてきた梅雨茸を取り除きもせず、そのまま放っておいたら、同じ場所にまた生えてきちゃったよ」ということになるので。

くらがりにいずれも烏瓜の花

季題「烏瓜の花」で夏。烏瓜の実は秋。
くらがりに薄ぼんやりと浮かび上がっている妙なものがある。よくよく見てみると、それはいずれも、烏瓜の白い花(烏瓜の花は、夜に咲く花である)だった。白い花だから浮かび上がって見えた、というのは理屈だけど、烏瓜の花の形がこの句の眼目で、白い五弁の花のまわりを、線香花火のような、しかし白い色をした糸みたいなものがぐるぐる回っているのである。それだからこそ、薄暗がりになんだかぼんやりと見えてくるわけだ。「いずれも」から、ひとつではないこともわかる。


(句帳から)

川床料理日向だつたり日影だつたり

大試験(8/18) [皿回し]

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ことしの本試験の問題(酒税法の問題)は、大半の受験生―といっても全国で1,000人ぐらいしかいない―が顔面蒼白になるような、細かい規定を書かせる問題だったらしい。
1年間準備してきた末にそんなトリビアルな論点を聞かれた受験生が気の毒だとも思うし、逆に、本命中の本命みたいな論点だと初学者も経験者も差がつかないから、経験の蓄積が少しでも答案に現れる分だけ、こういう問題のほうがいいのか、とも思う。
それにしても、自分が受験生だったら、問題用紙の表紙をめくった瞬間にフリーズしたと思われ、ぞっとする。

自分が受験生だったら、で思い出したのだけど、受験生だったころ、同じ受験生仲間のブログをよく読んでいたものだけど、そのころ読んでいたブログの大半は、もう閉鎖されてしまっている。その中で数少ない、いまも続いている「とぼよ」さんのブログ「とぼよの税理士試験」を読んでいてびっくり。

(以下引用部分)
今年は出産予定日が本試験の10日後という
ある意味 しあわせ爆弾をかかえていますが
(以上引用終了)

それでも受けにいくような人だけが、最後まで残って資格をつかみとるような試験ということなのだろう。文字通り体に悪い。余談だが、受験生を何年もやっているとだんだん恨みがましくなったり被害者意識に陥ったりしがちなのだけど、このとぼよさんのブログにはそういう「感じ悪さ」みたいなものが微塵もなくて、本当にあっぱれだと思う。お目にかかったことはないが、こういう方は将来、いい税理士さんになるのではないだろうか。

森谷明子『春や春』(光文社、2015)【ネタバレ注意】 [俳句]

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俳句、というより俳句甲子園を題材にした青春小説。
青春小説の舞台は学校生活であることが通例(例外として『宇宙のウィンブルドン』みたいなファンタジーもあるけど)なので、題材は陸上だったり吹奏楽だったりボート競技だったりする。で、小説としての面白さとは別に、その題材については、それぞれの専門家からいろいろな意見があるところ。俳句の専門家でもないけれど、この小説の俳句について少し感想を。

俳句甲子園では勝ち負けをつけなければならない―勝ち負けがはっきりしないと小説にならない―ので、当然のごとく「俳句甲子園で勝つには」という話が出てくるわけなのだけど、メンバーが俳句を一通りさらった上で「勝つには」を考えるのではなく、「チームに集まってきたほとんどは素人」なので「最初から、俳句甲子園で勝てるような俳句を詠みましょう」という話になる。ここが俳句好きの一市民としては困るのですね。

つまり、「俳句甲子園で勝てるような俳句」というのが、まあ心配どおりな俳句わけで、114ページで新野先生が「最速と思われる上達法」として紹介する
 一.季語を決め、『や』『かな』のいずれかをつけ、それを上五とする。
 二.自分の選んだ季語からできるだけかけはなれた五文字の体言を見つけ、それを下五とする。
 三.下五を説明する七音の言葉を選び、それを中七とする

にもとづいた俳句がたくさんでてくるのですね。

この上達法の出典は、藤田湘子『実作 俳句入門』77頁(立風書房、1985)と思われ、そこには、
 ①上五に季語があって「や」切れになっている。
 ②下五には名詞が置かれてある。
 ③中七下五は一つながりのフレーズである。
 ④中七下五は、上五の季語とかかわりない内容である。
 ⑤中七の言葉は下五の名詞のことを言っている。

と書かれている。湘子はこの④について、その後のページで「(かつては)中七下五でもう一度季語のことを言うやり方がひんぱんに行われていた…ただ、この方法だとどうしても詠う範囲が狭くなるので、その分だけ観察の独自性や深さが要求されてきます。そうでないばあいは、類想類型になりやすいということになる…一方、④の方法は、配合、取り合わせ、二句一章、二物衝撃などという方法で…中七下五に感じられる作者の心理が、上五に映発されてさらに深まり、複雑な連想を広げてゆく…」と説明している(pp.78-9)

つまり湘子は、初心者には「観察の独自性や深さ」は無理なので、④でいきましょう、と言っているのだけど、そうすると、ある程度経験して上達したら④はヤメにして「観察の独自性や深さ」を追求してくれるんですね、というツッコミは別として、季題と関係ない中七下五って、結局「上五」と「中七下五」の順列組み合わせになってしまうので、場合によっては中七下五にふさわしい季題を後から持ってきて、収まり具合を点検して提出するなんてことになるのではないですか、と聞きたくなるわけで。

で、この疑問に対して湘子は「私たちは季語を大切にして俳句をつくります。しかし、季語と作者である私との関係は、季語が主で私が従ではありません。私が主で季語が従なのです。あくまでも私のために、私を表現するために季語の力を借りているのです。そこを間違ってはいけない。」(p.56)と言い切ってしまっている。ここでついに本音が出てくるわけで、初手からそう言えばいいと思うのだけど。

いや、もちろん虚子は季題を自由自在に使いこなしていたし、主観が勝った句もたくさんありますよ。でも、虚子の俳句の多くは、季題を見つめた句なのだから、虚子について「私を表現するために季語の力を借りている」とはいえないでしょう。それに、「私を表現するために季語の力を借りている」のなら、季題は「力を借りるため」の存在でしかないのですか。それなら、場合によっては無季だって差し支えないのではないですか。

もう一つ、これは森谷森沢さんが勘違いしているのか、書き方が不明瞭で誤解を招いてしまっているのかわからないが、上記上達法の二を「高浜虚子御大直伝」(p.115)と書かれると、困ってしまうのですね。

で、そういう俳句が初手からたくさん出てくるところに加えて、ストーリー展開上「何も無理やり相手の句を否定しなくても、本当にいいと思った俳句はいいと言えばいいじゃないか」という話になるものだから(これ自体はとてもまっとうなことだと思うのだけど)、その「本当にいいと思った俳句」っていうのが、当然のように「そういう俳句」なのですね。

この部分は引用しないと批評できないので引用するのだが、
 夕焼雲でもほんたうに好きだつた
 桃すする雨よ昨日の一言よ
という俳句にみんなが打ちのめされてしまうわけです。私が対戦相手の高校生だったら、突っ込みどころ満載だと思うのだけど。
「季題+季題と無関係な十二音節の何か」というパターンつまり「二物衝撃」を鵜呑みにしているから「でもほんたうに好きだった」とか「昨日の一言よ」とか、思わせぶりでひとりよがりな中七下五が出てくるわけですよ。それに夕焼雲の句は、順列組み合わせとしても過去に
鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨
のような先例があって、いささか新味に欠けるわけで。

翻って、小説の中で高校生が詠んだことになっているこれらの句は、当然作者が創作したものであろうと思うが、まったく俳句を詠んだことがない人の俳句とは思えないので、作者はもともと俳句に縁のある方であるようにも思える。そうであれば、いろいろ不満はあるにしても、次作を読んでみたい。

(8.24追記)
著者の森谷さんを「森沢」さんと誤記していました。大変失礼しました。

お祝い句会(7/18) [俳句]

師匠の古稀をお祝いして、かつての教え子有志による句会。そのあと宴会。

(選句用紙から)

昼顔の開ききらざる五角形

季題「昼顔」で夏。
昼顔のつぼみって、たたまれた洋傘のようにつんと尖っているのだけど、それが開きはじめると、丸とも四角ともつかない形に開いてくる。ついでに色も、白ともピンクともつかない色をしている。その開ききっていない状態が「五角形」として詠み手の目にとまった。「開ききらざる」が巧み。

梅雨曇イギリス館の昼灯

季題「梅雨曇」で夏。
イギリスにある建築物はイギリス館とは呼ばないので、イギリス以外の風景になるが、そこまで理屈をいわなくても、「梅雨曇」なのだから日本の横浜とか神戸とか、外国人居留地のような場所に残っている建物なのだろう。で、おなじ居留地にあるフランス館とかイタリア館じゃだめなのか、というと、これがだめなのである。ダメとまではいえないかもしれないが、ヨーロッパの建物って、ものすごく南の暑い方は別として、だいたい南へ行くほど窓が大きくなっていくのが相場なので、イギリス館というと、窓が小さくて暗い感じの建物を連想するわけだ。19世紀的な官僚機構を連想するからかもしれない。で、そこへもってきて梅雨曇りで暗いので昼灯、と書くと理屈になってしまって面白くもなんともなくなってしまうのだけど、眼前の風景として、館内の廊下とか室内とかが連想できればよいのだろう。

(句帳から)

七月やエリック・クラプトンも古稀