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青柳いづみこ「グレン・グールド 未来のピアニスト」(ちくま文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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副題の「未来のピアニスト」ってどういうこと?と思いながら手にとったのだけど、驚きの連続。

あのグールドが、デビュー以前には抒情性あふれる演奏をしていたとは。歌うグールドっていうと普通、声に出して歌うグールドを思い浮かべるのだけど、鍵盤で歌い込むグールドもまた、もともとの姿だったのですね。
「グールドの原点はスタッカートではなくレガートだったのである。」(p.358)

さまざまな音源、特にライブ録音の音源をたどりながら、「ピアニストグールド」が自らの立ち位置や売り出し方を選んでいく過程を推理していく前半は、ドキュメンタリー番組を見ているような面白さがある。彼がステージ演奏を否定していたために彼のライブ音源までが否定されていた面があるとすれば、同業者の視点で彼のライブ音源を丹念にトレースしていったことが、本書の第一の功績だと思う。

その上で重要な指摘として、まず、グールドにとってそういう選択が可能であったのは、彼が「いかようにでも、自分の頭で思ったのと同じ音を出すことができる技術があったからだ」という点は重要だろう。
また、当時の時代状況について「売り出すことのできる若いピアニストが払底していた」という指摘も、ちょっと聞いただけでは信じがたいようにも思うが、「いきなりメジャーデビュー」という謎に説明をつけようとすれば、確かにそういうことになるのだろう。

それにしても、グールドがやりたかったこと、つまりさまざまなテイクを自由に編集して、意図に沿った作品をつくりあげていくことって、記録媒体がアナログテープからデジタルに、さらにハードディスクからクラウドへと移るにつれて、また同時に複雑高価な編集機がPCに置き換わっていくにつれて、理屈上は小学生でもできるようになってくるわけだけど、そこではじめて、これまでになかった新たな創作の形態が完成するわけだから、そういう意味で、「未来のピアニスト」という切り取りかたはまことに的を射たものだと思う。

一点だけ疑問があるとすれば、功成り名遂げたグールドが、デビュー以前の「レガートなグールド」に戻って、自分がむかし弾いていたリリカルな演奏を(もちろんレコードでだが)世に問うことをしなかったのはなぜだろう、ということ。何が「本来の」グールドなのか、は結局誰にもわからないのだけど、きわめて理知的にコントロールされた音楽をもたらしてくれたグールドの本来の姿が別のところにあるとすれば、それは何なのか、を述べて静かな興奮をもたらした上、さらに多くの"if"を提起している第18章「受肉の音楽神」(pp.382-411)は音楽ファン必読。

ご本人は自らのウェブサイトで、「初めからグールド論を書くつもりで材料を集めていたわけではありません」と述べられているが、だからこそなしえた分析なのかもしれない。