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第85回深夜句会(5/14) [俳句]

(選句用紙から)

ガジュマルの下に涼しくゐれるかな

季題「涼し」で夏。ガジュマルは、幹から気根が出てむくむくと茂ってゆく熱帯の植物なのだけど、その木陰で涼んでいる、という一句。何気なく読むとありきたりに感じるが、「ガジュマル」なので暑い土地であることは明らかなので、その下にたたずんでいる状況というのは、会社の昼休みだとか電車を待っているとかではなく、特に用事もなくぼんやりしている、そういう状況であると察せられるから、「涼しく」がたいへんうらやましく魅惑的に響くのだ。
ポール・セローの『ダークスター・サファリ』の一節に、タンザニアのどこかの駅前にマンゴーの大きな木が植わっていて、その木蔭にいつまでも座り込んでなにもせずにいる人々が描かれている(ただし、ここでは否定的に描かれている)のを連想する。

紐が紐を動かしてゐるヨットかな

季題「ヨット」で夏。ヨットに詳しいと「紐」という表現は絶対にできないのだけど、ヨットって確かに、どこかのシートをぐいと引っ張ると滑車で思わぬところが思わぬ方向へぐいと引っ張られて、それでブームやセールが動いていって…という「ピタゴラスイッチ」みたいな面白さがある。もちろんそれは人が操作しているのだけど、ある距離から見ていると、あたかも「紐」が動いて別の「紐」を動かしているかのようだ。艇の中とか至近距離でもなく、遠くでもなく、艇の半分ぐらいが見渡せる間近な距離から見ているということかもしれない。


(句帳から)

峠から青田へ降りてゆく線路

沼田まほかる『ユリゴコロ』(双葉文庫、2014) [本と雑誌]

これはまた一体なんというホラー…と思いながら読み進める。
しかし最後の20ページに、思わぬヒューマンドラマが。一気に読み終えて茫然自失。
大沢在昌氏が腰巻きに「読者をも企みにはめる、恐ろしい書き手」と書いているが。同意。

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番町句会(5/8) [俳句]

きょうの席題は「五月」と「蕗」。
会場に着いたのが締切の3分前。どうするか。自宅の近所に蕗が自生している場所はないので、食卓にのぼる蕗を詠むか、記憶のなかの蕗の風景を詠むしかないのだが、そんな時こそ力量の差(弱点というべきか)がもろに出るという話。

(選句用紙から)

蕗原の広さや機関区もありき

選句用紙が回ってきてびっくり。自分とほぼ同じ風景(蕗の原かつて駅舎のありし場所)を詠んでいる。
しかしこの2句の差は明らか。師匠の句と自分の句を比較するのもおこがましいのだけど、自分の「蕗の原」の句は、それを説明している詠み手の存在が消し切れていない(=読者から詠み手の姿が見えてしまい、詠み手の説明を押し付けられた形になっている)のに対して、師匠の「蕗原の」の句では、詠み手はいわばレンズになりきって、表に出てこない。
ふだんから「説明に陥らない」ことを意識していても、とっさの場合に弱点が出るのですね。反省。

シャツ腰に巻いて五月の風の中

爽快な、そしてある時代を切り取った句でもある。その方面にうといのだけれど、シャツを腰に(腹に?)巻くのがやたらと流行った時期がありましたね。ちょうど自分が、ダンガリーだとかシャンブレーだとかオックスフォードだとか、シャツの生地について少しずつ覚えていった時代とも重なっているのだけど。そしてこのところ、そのブームが再燃しているような気がする。

(句帳から)

蕗の原かつて駅舎のありし場所
ワイシャツに腕を通して薄暑かな
夏めくや使ひ古しの革鞄

青柳いづみこ「グレン・グールド 未来のピアニスト」(ちくま文庫、2014)【ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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副題の「未来のピアニスト」ってどういうこと?と思いながら手にとったのだけど、驚きの連続。

あのグールドが、デビュー以前には抒情性あふれる演奏をしていたとは。歌うグールドっていうと普通、声に出して歌うグールドを思い浮かべるのだけど、鍵盤で歌い込むグールドもまた、もともとの姿だったのですね。
「グールドの原点はスタッカートではなくレガートだったのである。」(p.358)

さまざまな音源、特にライブ録音の音源をたどりながら、「ピアニストグールド」が自らの立ち位置や売り出し方を選んでいく過程を推理していく前半は、ドキュメンタリー番組を見ているような面白さがある。彼がステージ演奏を否定していたために彼のライブ音源までが否定されていた面があるとすれば、同業者の視点で彼のライブ音源を丹念にトレースしていったことが、本書の第一の功績だと思う。

その上で重要な指摘として、まず、グールドにとってそういう選択が可能であったのは、彼が「いかようにでも、自分の頭で思ったのと同じ音を出すことができる技術があったからだ」という点は重要だろう。
また、当時の時代状況について「売り出すことのできる若いピアニストが払底していた」という指摘も、ちょっと聞いただけでは信じがたいようにも思うが、「いきなりメジャーデビュー」という謎に説明をつけようとすれば、確かにそういうことになるのだろう。

それにしても、グールドがやりたかったこと、つまりさまざまなテイクを自由に編集して、意図に沿った作品をつくりあげていくことって、記録媒体がアナログテープからデジタルに、さらにハードディスクからクラウドへと移るにつれて、また同時に複雑高価な編集機がPCに置き換わっていくにつれて、理屈上は小学生でもできるようになってくるわけだけど、そこではじめて、これまでになかった新たな創作の形態が完成するわけだから、そういう意味で、「未来のピアニスト」という切り取りかたはまことに的を射たものだと思う。

一点だけ疑問があるとすれば、功成り名遂げたグールドが、デビュー以前の「レガートなグールド」に戻って、自分がむかし弾いていたリリカルな演奏を(もちろんレコードでだが)世に問うことをしなかったのはなぜだろう、ということ。何が「本来の」グールドなのか、は結局誰にもわからないのだけど、きわめて理知的にコントロールされた音楽をもたらしてくれたグールドの本来の姿が別のところにあるとすれば、それは何なのか、を述べて静かな興奮をもたらした上、さらに多くの"if"を提起している第18章「受肉の音楽神」(pp.382-411)は音楽ファン必読。

ご本人は自らのウェブサイトで、「初めからグールド論を書くつもりで材料を集めていたわけではありません」と述べられているが、だからこそなしえた分析なのかもしれない。