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第84回深夜句会(4/16) [俳句]

会場の喫茶店は、地下にあるためか風通しに難があり、以前はいつも煙草くさかったものだけど、いつの間にか禁煙になっている。禁煙になったことで、なんとなくお客の顔ぶれが変わったような。

(清記用紙から)

湯気のたつもの食うてをり春の夢

春の夜に眠っていて夢をみた。その夢というのがモノを食べる夢で、それが何であったかは定かでないが、湯気が立っていた。なにか具体的なものの名前でなく、「湯気のたつもの」だったというところが眼目。実体は湯気のむこうにおぼろにあるのだけど、それが春の夜の朦朧とした感じにシンクロしている。

追ひつけば天南星や下山道

季題「天南星」で春(晩春)。天南星(てんなんしょう)はマムシグサやウラシマソウなどの総称だが、いずれも太い軸のような茎や蓋つき筒のような花(花ではないのかな、あれは)を備えた風変わりな姿をしていて―それを言うならミズバショウやサトイモだってそうなのだけど―登山者にとっては「じめじめした場所」の代名詞なので、美しい花に心なごむというよりは、さっさと先を急がなければというような心持を表しているのだろうか(私だけか)。

で、「追ひつけば」なので先行する誰かあるいは一団に追いついたのだけど、そこは見通しのきく稜線とかではなく、森のなかの湿った道で、道の傍らにはそんな草がにょきにょきと立ちあがっている。シューマンの「森の情景」に「気味の悪い場所」という曲があるけど、せっかく追いついたのに立ち止まってゆっくり話すような場所でもなく、黙って歩きつづけている。

(句帳から)

境内にまやようちえん花まつり
大通り渡りおほせて風光る

キラキラネームを笑えない [俳句]

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久しぶりに柏へ行ってびっくり。
スカイツリーラインもどうかと思うけど、アーバンパークラインって一体何よ?

何が困るって、この名前では、どこを走る路線なのか全然わからないではないですか。
(この沿線がアーバンかどうか、という不毛な話には興味がないので念のため)

また、何の目的でそういう名前をつけるのかわからない(例えば、「野田線」ではこんな不都合があるとか、こういう名前をつけるとこういう効果が見込まれるとか、具体的な目的があるのだろうか)。ちなみにプレスリリースには「沿線価値の向上をめざします」と書かれているのだけど、そもそも「沿線価値の向上」ってどういうことなのか不明だし、仮に「沿線価値の向上」を無理やり定義したとしても、この名前が沿線価値の向上をもたらす理由、つまり「野田線」では向上しないが「アーバンパークライン」だと向上する理由が不明。

もしJR東日本が「“沿線価値の向上”をめざして中央線東京・高尾間の愛称を『アーバンパークライン』と命名します。」とやったら、武蔵野市議会とか杉並区議会あたりが「ふざけんな!」と言い出すと思うのだけど。言い出さないか。

(以下は全くの想像で書いています)

これらはみな、いい年をしたオトナが何人も集まって考えた結果なんだよね?
東武鉄道は大きな会社なので、担当者や担当部署の独断で新しい名前をつけるなんてことはできないと思うのですね。取締役会にかけるか、最低でも担当役員の決裁を得ていると思うのだけど、そうすると、それらの会議や打ち合わせの過程で、この提案について相当の議論が交わされたはず。いったいどんな発言が交わされたのだろう。「恥ずかしいからやめよう」とか発言した従業員はいなかったのだろうか。

百歩譲って、現場にいる従業員つまり運転士や駅員がそういう名前を使いたくて提案したのなら、まぁしょうがないかと思う。しかし、そうは思えないのですね。なぜって、自分が駅の案内係や車掌だったら、毎日何十回も声に出す名前は「短く」「発音しやすく」「実体をイメージしやすい」ほうがありがたいから。で、ボトムアップでないとすると、こういう話を持ち込んでくるのは、広告代理店や不動産屋ではないかと。いゃ彼らは彼らで商売なんだからどんな提案だってすると思うのだけど、それに乗るかどうかは見識の問題でしょう。こっぱずかしいというか、尻のあたりがむずむずするような感じがないのかな?それとも、広告代理店のいいなり?

いや、おかしいのは東武鉄道だけではない。

えちごトキめき鉄道妙高はねうまラインとか…
道南いさりび鉄道とか…

固有名詞の夜露死苦化&マンションポエム化はとどまるところを知らない感じ。固有性や生活感がないものを尊ぶというのはどういうメンタリティなのだろう。

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俳句の中心が季題にあると考える自分にとっては、その季題のその季題たるゆえんを考えることと俳句を詠むことはほとんど同義であって、そうするとその季題に固有の性質とか名称というのはとても大切なものだ。また、宮坂静生さんの「地貌論」にしても、その前提にあるのは、「地域に根ざした習俗や自然現象」を尊び、追究していくための前提として、自分にまだなじみのない固有性について共感しようと努力する、ということがあるのだと思う。自分の知っている祭礼は全国民が知っていて当然だが、自分の知らない祭礼は顧慮に値しないなどという態度がとれるはずはない。つまり、「野田線の野田ってどこよ?」というのは固有性への入口、最初の手がかりなのだ。

「アーバンパークライン」で固有性を排除してしまったら、地貌どころではない。ネット上で揶揄されている「ソイソースライン」のほうがまだマシだと思う。いや本当に。

オーケストラ・ナデージダ 第12回演奏会(4/11) [音楽]

先週の紀尾井ホールから一転して、人影もまばらな客席…と思っていたら、開演直前にはほどほどに埋まって一安心。お客さんの平均年齢はずいぶんと高く―たぶん平均年齢は私より高い―あちこちのアマチュアオーケストラを聴いて回っていると思しきお年寄りの会話も。考えてみると、年をとって時間がありあまっていたら、映画見に行くよりアマチュアオーケストラ聴きに行ったほうが楽しめるという人も多いのかもしれない。

で、はじめましての3曲。演奏会で「初めて聴く曲」に出会うことはよくあるのだけど、プログラム全部が「初めて聴く曲」かつ「初めて耳にする作曲家」となると、ちょっと記憶にない。

ダルゴムイシスキー/歌劇「ルサルカ」第2幕より「婚礼の場面の導入」「スラブの踊り」「ジプシーの踊り」
ミャスコフスキー/交響曲第25番Op.69
ハルヴォルセン/交響曲第1番ハ短調

ダルゴムイシスキーは、チャイコフスキーの「花のワルツ」とかグリンカの「ルスラントリュドミラ」序曲みたい曲で、けっこう楽しめる。
ミャスコフスキーとハルヴォルセンは……どこから食べればいいのかわからない料理のような…

アンコールに演奏してくださったシンディング「古風な組曲」より第1曲って、これまた作曲家も曲も知らないという徹底ぶり。

(2015.4.11 狛江エコルマホール)

千代田フィルハーモニー管弦楽団 第61回定期演奏会(4/4) [音楽]

既に散りかけている土手の桜を仰ぎながら歩いて、紀尾井ホールの列に並ぶ。
大入り満員。アマチュアオーケストラで満員札止めって、あまり記憶にない。

前半がピアノ協奏曲第2番、後半が交響曲第2番というオール・ラフマニノフ・プログラム。
見るからに(聴くからに、か)難曲を2曲も続けるのは大変な技術と集中力を要すると思うのだけど、それをやり切ってしまう力ってすごいと感嘆。で、聴いている方はというと、あの濃厚なメロディーに前半で既に満腹してしまって、後半は荷が重かったりする←聴いてるだけなのに疲れてどうする。

どんなオーケストラにも持ち味とか芸風のようなものがあって、曲が難しいかどうかの尺度とは別に、その持ち味にぴったりくる作品や作曲家があると思うのだけど、千代田poの演奏で今まで印象に残ったものって、2005年の「宗教改革」とか、2006年の「田園」、2008年のブラームス4番、2011年のブラームス1番、そして2013年のドボルザーク8番。どれも「細部にこだわるよりも、大づかみに音楽に共感する感じやドライブ感」にあふれた名演だったのではないかと思う。いやもちろん、きょうも名演だと思うのだけど、ラフマニノフのメランコリックなメロディーが、そういう共感やドライブ感とどこか打ち消しあうような感じがして、演奏自体をすごいな~と思いながらも、どこか乗りきれなかったのは、こちらの体力不足。

年末には「巨人」来年春が「ザ・グレート」だそうで、特に後者は、このオーケストラにあふれる手作り感というか、本番でミラクル起こしてみせましょうみたいな感じによく合った曲のように思われ、今から楽しみ。

ラフマニノフ/ピアノ協奏曲第2番Op.18
ラフマニノフ/交響曲第2番Op.27

(2015.4.4 紀尾井ホール)