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第154回深夜句会(3/11) [俳句]

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(選句用紙から)

つくし生ふ池上線の土手低し

固有名詞を持ってくると、細かく説明しなくても読み手に大量の情報を伝えることができる。そこが
逆に怖いところでもあるのだけど、この句では池上線の「土手」が詠まれている。電車の「土手」自体 がややクラシックなものになりつつある中で、低めに築かれた土手は、郊外電車が盛んにつくられた時 代と、それをずっと守り続けてきた会社や沿線の人々を連想させる。季節になるとそこにつくしが生え ることを知っている地元の人は、勝手に土手に入り込んで摘んでいるのかもしれない。

軽トラの荷台に零れ藪椿

この藪椿はどこに咲いているのだろう。果樹園の隅か、生産緑地か、農家の庭先か。「軽トラ」とい
う素材自体が、それほど大規模でない農家を連想させ、荷台に何が載っているのか、となるわけだが、 ここでは資材や収穫物ではなく、カラの荷台に藪椿の花が落ちている。白い車体に赤い藪椿の花。

徘徊の祖母の健脚春の闇

「春の宵」だったら、ああ見つかってよかった。それにしてもおばあちゃんは健脚だね、という苦笑
いが想像されるが、「春の闇」となると事態はにわかに深刻いや不穏になり、まだ見つかっていないか、現に暗闇の中を歩いているところに遭遇したように感じられる。そうなると、「健脚」という強い言葉が独自の物語となって立ち上がり、読み手にいろいろなことを考えさせる。

何となくコアラに似た子ねんねこに

季題「ねんねこ」で冬。歳時記が編まれたころのような「ねんねこ」は当節あまり見かけなくて、体の前で抱える形のものが連想される。あれは多くの場合、親と向かい合うように、つまり進行方向にこどもの背中が向くように抱えるのだけど、進行方向にこどもの顔が向くように抱えるタイプもあって、これは直截にカンガルーとかコアラを連想させる。その子が目を閉じて眠っている様子が、さらにコアラを思わせる、という句。

卒業す僕らを乗せて⻄武線

「私」でも「おのれ」でも「僕」でもなく「僕ら」。
僕らを乗せて走っていくこの電車の先には、何が待っているのだろう。

(句帳から)

お隣もそのお隣も花ミモザ
苗札のうち何枚か子供の字
バラックのやうな横丁蕨餅
島までは船で三分風光る

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