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先崎学『うつ病九段』(文春文庫、2020)【一部ネタバレ注意】 [本と雑誌]

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まだ7月だが、今年のベストワンはこれになるのではないかと。「なるほど」の連続。

自分や家族のうつ病についての経験談は数限りなくあるけれど、これは出色の一冊。その理由は、
・もともと筆の力のある人なので、「心の状態」というむずかしいことを、リアリティーをもってうまく説明できていること
・回復の過程が棋力を通じて測定(検証)可能だという観察が、とても説得的であること
の二点。

一点目については、著者自身が「エピソードが少なすぎる」(p.162)と書かれているが、全然そんなことはない。シャワー室でシャワーを浴びて「かすかな心地よい感覚にすごく懐かしいものを感じた」(p.32)箇所とか、回診中の教授とのやりとり(pp.53-4)とか、後輩の何気ない一言に感激する(p.74)とか、読んでいるこちらが思わずふうっと息をついてしまいそうな迫力がある。ついでに、ジンギスカン屋で隣の女性から布教されてしまう場面(p.121-2)なんかも、やっぱりそうだよね、と思わせる。角田光代さんが「インタビューなんかじゃなく、自分で(この本を)書いてください」(pp.161-2)と強く勧めたのがよくわかる。
ただ、腰巻きに使われているエピソード(p.98)は本題からちょっと外れているように思われ、編集者がなぜこれを使おうと思ったのか疑問が残る。

二点目については、病院の看護師さんと将棋をさすエピソード(pp.47-8)を振り出しに、そこから長い長い時間をかけて回復していく過程がきわめて具体的に(ここ重要!)綴られており、納得がいく。これが例えば、事務の仕事だったら、出来栄えが向上したり劣化したりしても、認識も測定もなかなか難しいところ、本書のように書かれていれば、将棋をまったく解さない自分でさえ、なるほどそうなのかと思う。

また、この経過を読んでいると、人間が「社会」に属して生きている動物だということを痛感する(マギー、聞いてる?)。

余談。この本では「ヒマ(退屈)と感じるかどうか」が回復を示す物差しのひとつとされているし、「ヒマを感じないというのは、うつの症状そのものといってもよいのではないだろうか。」(p.63)と書かれている。また実際、時間の経過とともに退屈を覚えることが多くなり、「これが脳にエネルギーが溜まってきた証拠である」(p.134)とも書かれている。これと裏返しのように、著者が発病直前まで大変な激務の渦中にあって、それが落ち着いたところで病気が始まったことも、示唆的である。激務かどうかは別として、ヒマを感じるかどうかという物差しだとしたら、勤め人の多くは、もう何年も、ヒマだと感じたことがないのではないだろうか(そんなことはないか。でも自分についていえば、2005年ごろからもう15年ぐらい、一度もヒマだと感じたことがないが…←これはこれで別の病気)。

本筋とは関係ないが、著者は自らについて「棋士のなかでは感性を大事にするほうであり」(p.152)と述べている。直感重視だとも書いている。ここでいう「感性」がどのようなものなのか、素人にはよくわからず残念なのだが、しかし例えば「将棋界は芸の世界で、先輩が後輩にこの世界の美しさ、存在意義とうを語りつぐ、あるいは姿勢を教えるものだという伝統があり、私もそういう教育を受けて育った。しかしいつごろからかそうした風潮が薄れつつあり、私は常々不満に思っていた。」(p.102)という物言いからは、どちらかといえば規範意識の強い、俗にうつ病になりやすいとされる性格のようにも思われるのだが。

(9.20追記)
著者に向かって精神科医がこう言う場面がある。「医者や薬は助けてくれるだけなんだ。自分自身がうつを治すんだ。風の音や花の香り、色、そういった大自然こそうつを治す力で、足で一歩一歩それらのエネルギーを取り込むんだ!」
俳人だったら、これを読んでおおっと思うわけですね。風の音や花の香りや色を取り込むといったら、俳句を詠むときにやっていることそのものではないですか。そうすると俳人は、うつ病になっても回復しやすいのだろうか。いや逆に、そういう習慣があるにもかかわらずうつ病になってしまうとしたら、重いうつ病になってしまうということなのだろうか。
 
 
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