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恩師を見送る(1) [雑感]

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これからどうやって生きていけばいいのか―――恩師の葬儀が終わって寺を辞去し、駅まで歩きながら唐突に思った。同時に、そう思ったことに驚いた。なぜなら、自分は研究者でもなく、親しく指導を仰いでいたわけでもない。はるか数十年前、この恩師の研究会(ゼミ)に2年間所属して卒論を提出したにすぎないのだから。いったいなぜ。

初めて恩師(以下、単に「先生」という)に出会ったのは、プレゼミ的な大学2年生向けの選択科目の授業で、当時先生は50代なかばだったはずだ。それから卒業までほぼ2年半、先生の研究室が生活の中心になり、明けても暮れても卒論のための統計資料づくりに追われたのだった。この間に教わったことはたくさんあるが、ざっくり言えば、歴史上の「事実」について何か言おうとするためには、一次資料を探し、その資料について史料批判を行い、丹念に読み込んで集計し、最後にいくつかの条件をつけた上で、ようやく言える、といった順番が必要であること、またその「事実」にもとづいて何かを評価したり主張するなどというのは、ずっと先の話だということだ。特に「丹念に読み込んで集計し」の部分が、文字にするとわずか11文字なのだが、気が遠くなるほど手間ひまがかかることを思い知った。そういう指導を受けると、評価にあわせて事実をいいかげんに拾ってきましたみたいな話が町にあふれていることに慄(以下自粛)。

そのように厳しく指導を受けながら、研究者をめざすことなく就職してしまったことについて「それでよかったのか」という思いもあるし、修論も書かずに学恩などという言葉を安易に持ち出す資格があるとも思わない。しかし、あの研究室で教わったお作法というか「事実をめざして努力する態度」は、疑いなくその後、自分の職業生活の屋台骨を支えているので、その恩義ははかりしれない。また、こじつけを承知でいえば、この「あくまでも眼前の事実にもとづいてものを言おうとする態度」というのは、俳句の詠みかた(藪柑子が思う、俳句の詠みかた)に通じるものがある。

先生は、大学を辞められた後も、大学近くの貸事務所に研究室を構えて研究を続けておられた。80歳をすぎて通勤が困難になると自宅近くに事務所を移し、そこへ通うのも難しくなると、自宅で執筆を続けられた。むろん、研究に関して私がお手伝いできることは何もなかったのだけど、85歳をすぎて執筆を始められた「自伝」について、先生と自分の共通の趣味(後述)にもとづいて、むかしのさまざまな出来事についてのご質問をいただくようになった。どこから調べればよいのか見当もつかないような質問もあり、その都度考えこんでしまったのだが、なにしろ在学中には何の役にも立たなかったゼミ生が、少しでも役に立てただけで、たいへん嬉しく感じられたものだった。

そこで冒頭の「なぜ」に戻ると、現在進行形で指導を受けたり相談をしたりする間柄でなくても、もっと根本的な「座標」あるいは「北極星」のような存在として、先生を認識していたのだと思う。緯度や経度、緯線や経線は自然界に有形物として存在するわけではないし、日常的に意識するものでもないが、地球上で場所を特定するためには欠かせない存在であり、それが突然失われてしまったら大混乱するだろう。自分が受けた感じは、これに近い。なにか本当に深い疑問を感じたときに相談できたり、基本的なものの考え方を示してくれる指導者がいないということが、これほど自分を不安にさせるのだということを思い知った。

 冬晴れの青のうつろふ薄暮かな
 冬夕焼ずつと遠くへ行く列車

 

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