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乙川優三郎「ロゴスの市」(徳間書店、2015) [本と雑誌]

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前作「脊梁山脈」では、骨太な物語に感心しつつも、サイドストーリーの分量の多さにやや集中力をそがれてしまったのだけど、これは誰かに紹介せずにはいられない、すばらしい作品。

仕事であれ私用であれ、外国語や知らない事物に立ち向かう人が感じるであろう感覚が、丁寧に描かれる。その感覚とは例えば、「目の前の海は美しく、泳いだら楽しそうだが、同時に恐ろしく深く、背がたたないどころか、どこに底があるのかもわからない」というような、畏れにも似た感覚である。そこで、これを乗り越えるべく、二人は「寝食を忘れて没頭する」のだが、その苦闘ぶり、それもカネや立身出世のためでなく、ただもうその「外国語」という相手に立ち向かうこと自体に没頭しているさまは、何やら適塾時代を描いた「福翁自伝」を連想させ、すばらしい。付言すれば、当節「自分の知らないことはとるに足らないこと、知る必要のないことであり、従って自分は何もかもわかっているのだ」と割り切ってしまえる人々が花盛りな状況への異議申し立てとしても、まことに共感できる。Scio me nihil scire.

第二に、知力の限りを尽くして長年にわたる戦いに挑んでいるその人自身が、ひとたび机を離れれば自分のような世俗の凡人と変わらぬ懊悩にさいなまれ、周章狼狽したりだらしなくなったりするさまが、親近感を誘う。

第三に、ことばの奥の深さともいうべきか、翻訳者や通訳のみならず、その源にある著者や話者自身でさえも「書籍として固定された、あるいは発言として記録された、その表現がすべてだとは思っていない」というメッセージに感じられることが奥深い。本書にも登場するジュンパ・ラヒリが、母語による著述であれだけの成果を収めたにもかかわらず、その後母語以外での活動に進んでいったことなども連想される。

また、これは前作にも通じるが、地味な情景描写の巧みさや、句点でも読点でもない「、」の使い方など、地の文がたいへん巧みで、間然とするところがない。手元に置いて何度も読み返したい一冊。

 
  
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